デンベレ選手の侮蔑発言から,差別とは何かということについて

FCバルセロナのデンベレ選手とグリーズマン選手が2019年に日本のホテルに滞在していた時のホテル従業員に対するデンベレ選手の発言の動画が差別発言と問題になっている.動画を見る限り,ホテルでゲームをするためホテル従業員にセッティングを頼み,2人の仏語を理解しない日本人職員が対応している間,彼らの顔にズームしながら「ひどい顔」と言ったり,「なんて言葉だ」「あんたら,先進国じゃないのかよ」と言ったりしている動画である.色々誤訳も出回り,差別だ,いや大したことじゃない,と色々な意見があるようである.
謝罪文らしきものも出たが,ホテルの従業員に対する謝罪以外は,差別じゃないという言い訳を書き連ねていた.それは自己弁護をまずするというフランス流儀なのかもしれないが,ことはフランス・日本間で起こっているので,フランス流に合わせてあげる筋合いは全然ないのである.こちらは謝罪が日本人流儀に合っていないからという理由で怒っても全然いい.

この動画や関連記事を見てかなり不快だった.想像してみて欲しい.フランスに行き,日本語のわからないフランス人ホテルスタッフに日本語かせめて英語でゲームがしたいからセッティングしてくれ,と頼み,それに真面目に対応している人の顔(標準的なフランス人の顔である)にズームしたりしながら,本人に向かって本人にわからない日本語で「うっわ,ひっでー顔.」「なんちゅー言語よ」「あなたら,先進国じゃないの?」と言いながら録画をしているのと同じことをしているのである.そこには,アジア人に対する差別意識も感じるし,公開されてしまったら,非難されるべき内容だと思う.

ただ,自分の中の線引きの一つに,これが彼個人だけのために撮られたものなのか,或いはSNS等にアップロードされたものなのか,で全然違うということがあるようだ.例えば個人の携帯に保存されていた動画(だとしても悪趣味ではあるが)が誰かの手によって公開されてしまったのなら,ある程度許容できる.個人の内側のレベルでは如何なる不穏な或いは正しくない感情も許されるべきだと思うので.ただ,自分の手で誰かに送られたり一時であれ公開されたものなのであれば,それはそこにいない人の目に触れることを想定しても公開してよいと判断したということで,十分に非難されるべきだと思う.まあ,現状公開されてしまった状態なので,社会の為に非難されることがよいことだと思うけれど.

*追記
彼はsnapchat で誰かに送信したのを相手が動画を表示している携帯を動画にとって保存しておいた模様.相手から反感買われてたんだろうな.

若者のスラングの範囲じゃん,悪意ないでしょ,という人がいる.まず,自分の中の基準としては,言葉の内容そのものだけでなく,その言葉を理解しない相手に対してぶつけている,という点が侮蔑的だと思う.従業員がフランス語を理解するモロッコ人でも同じ事が言えただろうか.耳が聞こえない人に対して,どうせ聴こえないからいいだろう,と「つんぼー」と言いながら揶揄するような動画を撮る,というのは,十分差別的だと思うのと同様に.さらに,もしそれが若者スラングの範囲で取り立てて悪意を感じないと主張するなら,その「普通」が既に侮蔑感情を含んでいるのであって,悪意がなかったから差別意識がない,ということには全然ならないと思う.無意識の差別というのは十分にある.
(例えば,かつて,アメリカ南部で黒人奴隷が一般的だった頃,中には黒人奴隷に対して親身な友情を感じたりしていた白人主人はいただろう.それでも奴隷と一緒に食事はしなかっただろう.それが当時の当り前だったから.それはその白人個人の問題ではなく,当時の当り前に含まれている差別感情である.)

問題なのは,デンベレ選手の示した侮蔑感情は「人種」差別なのか,という点である.ひろゆき氏によると,フランスでは人種差別は違法らしいので,デンベレ選手にとっては大きな違いになる筈だ.彼がその日初めて会ったであろうホテル従業員の顔の造作を(大した悪意があったとしてもなかったとしても)侮蔑したのは間違いないとして,彼らの顔の造作を侮蔑することはアジア人差別になるのか,それともホテル従業員個人を侮蔑しただけなのか.彼が侮蔑したものは何だったのか.(念の為,ホテル従業員の顔立ちは私からするとよくいる日本人の顔立ちであった.)
育ちの悪い(失礼.しかし今回彼はそのことを免罪符的に使っている.)デンベレ選手に,そもそもアジア人の顔が見分けられるんだろうか.アジア人である自分としては,彼が侮蔑したのは「アジア人的顔立ち一般」と感じてしまう.そうであれば,立派な「人種差別」になるのではないだろうか.
例えばこれがアメリカのホテルでフランス語のわからない西欧系従業員が対応していたとしたら,デンベレ選手は同じ行動をとっただろうか.自分は,とらなかったんじゃないかと想像する.アメリカ人を不用意に侮蔑すると面倒なことになる,翻って,アジア人は侮蔑してもいい,という感情があるように感じる.しかしそれは完全に自分の妄想である.ただ,そのように推察されるということ自体が,アジア人差別があると被差別側である我々が思っているという証左ではある.これが黒人だったら,白人以上にこのようなことはまず起きないだろう.黒人を侮蔑すると大変なことになると多くの人が認識しているから.アジア人についてはそのような認識はない.現にあるアジア人差別を是正する為に,黒人に対するように保護的な認識を広めるべきだ,というのは正しいだろうか.

悪口を言う自由は保障されるべきだ,という論には賛成する.悪口が言えない世界なんて息苦しい.でも,そもそも差別と悪口の違いの線引きは難しい.個人的な関係の構築された人に対してその人特有の性質に関して悪いことを言うのは,その個人に対する「悪口」である.殆ど関係性のない個人に対して,その人の属するある集団に対するイメージを投げつけるのは「差別」であるように感じる.では,例えば会社の女性部下に対して「これだから女は」みたいなことを言うのは「差別」だろうか.

差別でないものを差別であるとしてしまうと,逆差別や言論統制に繋がる,という危険もある.それはよいことなのだろうか.現行の社会に存在している差別に対抗するために,ある程度のカウンターバランスは必要悪,なんだろうか.差別の無くなった状態というのは,その違いを多くの人が気にしなくなった状態,だろう.働く女性が増えれば,女性が働くことが普通になって,そのことに対する差別が消えていく.女性の上司が本当に増えれば,女性の上司だから臍を曲げる人も減るだろう.そこへの移行措置として,女性を優遇するというのは,あり得る戦略,ではあるかもしれない.同程度の能力のある男女がいた場合,女性を昇進させる,というシステムを作ると,男性は不満だろう(現状はどちらかと言えば逆な訳だけで,女性は長い事差別されてきた結果そのことを甘受する傾向はあるが).その不満が社会を一層分断させる?うーん,そういうこともあると言えばあるが,その為に女性を差別されたままの状態にしてもいいということにもならない気もする.

外国に住んでいると,どうしても差別を受けることはある.今回フランスに住む日本人の中には「これは差別ではない」と反論する人も何人もいた.自分の欧州に住む日本人の友人も「若者は言葉が悪いものよー」と流していた.でもそれは,感覚が麻痺してしまっているのかもしれない.ある程度麻痺させなければ生きていけないという面は理解できる.多分私も自分が差別を受けたなら,苦笑いして受け流してしまうだろう.正直,差別を受けた時,その瞬間に正しく反論するのはかなり難しい.だからこそ,同胞が差別を受けた時には,冷静に,でもきちんと抗議したいと思う.

今回の件が差別で「ある」と捉えるかどうかは,捉える人の文化的文脈によって変わってしまう.ただ,今回の件を「差別である」とし,処罰がきちんと下されることによって,アジア人「も」差別してはいけないんだ,という認識が世界に広まるといいなと個人的には思う.


今回の件が差別ではない,と FC Barcelona 及び FIFA が判断するとしても,彼の侮辱行為は重々非難されるべきだ.

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