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綿密な計画と無計画

現在読んでいるのは佐藤優氏の「国難のインテリジェンス」である。
1/3くらい読み終わった感想だが、今まで読んだ佐藤氏の本の中でダントツにレベルが低い。
対談本なのだが、対談相手も微妙にピントがズレている印象がある。
なんか、結局現状に文句を言って不安を煽っているだけにしか見えない。
まさに野党仕草と言えよう。
当事者意識に欠けるとでも言えようか。

さて、その中で構築主義という話題が上がった。
世界は人為的な設計で人類の思い通りにできる、というものである。
都市設計であったり、マルクス主義経済であったりが代表的なものであろうか?
もっとも、私の主義としては、人工的に作られたものであっても、それは自然の範疇から抜け切れていない、と考えており、noteで人工物化による単一化、脱自然化の記事を書いていた人に指摘をしたのだが、イマイチ理解されなかった様だ。
やはり、いきなりレイヤーを上げた話題を振って視野の拡張を促しても、中々それを気付きとして成長できる人は少ないらしい。
また、マルクス主義経済が既に失敗したのは、共産主義が大失敗したことからも分かるだろう。
指導者に欲があればソ連の様に、欲が無ければカンボジアの様な末路を辿るのである。
中国については経済面では確かに成功していると言えるかもしれないが、あれは本当に共産主義と呼んでも良いものなのだろうか?
経済に関しては統制は効いておらず、計画経済とはとても言えないだろう。
むしろ、殆どが自由経済の理屈の受け売りである。
そして、万人へのユートピアを作る理想とはかけ離れた監視社会、人権抑圧社会である。
政治面でも、いつ政治犯として獄中死するか分からない恐怖政治である。
日本の左翼は「自民党の独裁だー!」とかバカな事を言うが、本物の独裁をその目で見てくるべきだ。
我が国では、与党を叩く方が野党を叩くより安全だと言える。
野党議員は、少し非難するだけで訴訟をチラつかせて脅す一方で、与党の元総理大臣は、非人道的な誹謗中傷の応酬にも笑顔で耐え、死のその時まで国民と触れ合っていたのである。
もしも我が国や自民党が独裁政権だったのであれば、気持ち良く与党の悪口を言ってる奴らの家には今頃スーツにサングラスのこわ〜い人達が訪ねてきて、再教育施設に連行されて「人道的な思想教育」をされていることだろう。
そうなっていないどころか、普通に侮辱罪や、下手すれば犯罪教唆や殺害予告と思われる発言でさえ、相手が与党政治家であれば生温かく見逃されているのである。
本物の独裁者相手に安全に独裁者だと指摘することは不可能なのである。
つまり、独裁者と呼ばれた時点で、その人は独裁者ではないというパラドックスがあると言えよう。

閑話休題、人間が考えて色々とコントロールしようとしても、中々上手くいかないものである。
それは政治や経済、都市計画も含めた大きなものは勿論のこと、組織や個人の計画だって、計画通りに行く試しが無い。
組織の計画にもトラブルはつきものだし、個人の計画ですらうまくいかないのは、夏休みの宿題やダイエットに挑戦した人ならば多くが体感していることだろう。
稀には、完全に計画通りに達成したことのある人もいるかもしれないが…
自分自身ですら思い通りにコントロールできないのに、社会や世界、自然を完全にコントロール出来るだなんて、思い上がりも甚だしいと言えよう。
コントロール出来るというなら、まずはワンパンマントレーニングを一年でも続けてから言ってみるべきである。(ワンパンマントレーニングとは、腕立て腹筋100回、ランニング10kmを毎日欠かさずやる、という、頑張れば凡人でも出来るトレーニングメニューである。頑張れば…)

では、計画通りに進むことが無いなら、計画なんて作らずに行き当たりばったりで生きていくのが良いのか?
まぁ、そういう生き方もあるかもしれないが、個人的にはおすすめしない。
例え計画通りにいかないことが分かっていたとしても、計画を立てることに価値が無いわけでは無いのである。
今の時代、タイパ(タイムパフォーマンス)の時代だと言われているそうだ。
計画通りに行かない計画を作るのは時間の無駄ではないか?という疑問は当然であろう。
結論から言うと、私はそうは思わない。
確かに計画を作った所で、大多数の場合が計画通りには進まない。
計画は、実行に際して少しずつ修正して使っていくことになる。
そういった性質から、その一番の価値は、実行の叩き台となる、ということである。
そもそも、計画というものは、実行前の比較的余裕のある時期に作るものである。
実際に何らかの物事を実行している時には、その場その時の対処に忙殺されることが多い。
計画が無ければ、ただただ行き当たりばったりの対処を繰り返すだけになるであろう。
計画を事前に作っていれば、その場の対処をしている間にも、物事の中の自己位置を確認できるとともに、今後の方向性について再認識することができる。
また、予測していなかったことに対処するよりも、予測して、ある程度準備してきたことに対処することの方が遥かに容易である。
対処するための人員や機材等を事前に用意できるかもしれないし、何かあった時のための事前の根回しだって、しておいた方が他部署の協力は得やすいだろう。
不測事態、とはよく言われるが、全ての問題が不測事態となるよりも、計画段階である程度は予測事態としていた方が、本当に予測していなかった不測事態への対処に思考を集中ができる(予測された事態には計画を発動するだけでいい)ため、リスクは減少させることができるだろう。
当然、あらゆる事態に関して対処計画を作成する、だなんてのはナンセンスであるのは言うまでもない。
発生確率の余りにも低いことや、万が一起こったとしても対処リソースが極めて少なくて済む話は、本腰入れて検討する必要はない。
どういった事態に備えるべきかは、一般書籍にリスク評価について書かれている本があるはずなので参照されたい。
要は、発生確率と発生した場合の深刻性の積が多いものから順に準備しておく、というものである。
フェミニスト等は「痴漢冤罪なんて痴漢に比べれば殆ど起こらないのだから対策なんてする必要がない!」だなんて世迷いごとを言ったりしているが、それは「窃盗に比べたら殺人なんて殆ど起こらないのだから対策なんてする必要がない!」と言うのと大差ない。
言っては悪いが、ケツを触られて極めて不快な思いをするのと、社会的に殺されて多くの場合実際に死を選ぶのとをキチンと比較したのか?ということである。
本人にはリスクは殆どないかもしれないが、大切な身内の男性が痴漢冤罪の被害に遭ったら?とか、少しくらい想像力を働かせることができなかったのだろうか?
実際問題、魂の殺人だと言いつつ、貞操を守るためなら死を選ぶ!だなんて殊勝な女性は今や絶滅危惧種である。(その価値観が良いとは別に言わないが…)
強姦だけだと申告率は低いが、強盗も合わせてされたら申告率が跳ね上がるだなんて調査もあるそうだ。

閑話休題、当然綿密過ぎる計画を作成するのに労力を取られるのがナンセンスだと言うのは正しい。
そういった計画に固執し過ぎると、余計に問題が起きることは、報道等で諸官もイメージがあるだろう。
逆に、杜撰過ぎる計画しかなければ、現場で鬼の様に苦労することになる。
結局は、良い塩梅の計画を作って現場に持っていき、計画通りに済むことは計画を使いつつ、計画通りにはいかないものだと割り切って計画を修正したり、計画外の事態にも淡々と対処していく、というのが妥当な所だろう。
現場での対応能力に自信があるならば計画はザックリで良いかもしれないし、事前の予測に自信があるなら計画を作り込むのもありかもしれない。
また、準備時間の多寡でも計画の作り込みの度合いは変わってくる。
他の準備との兼ね合いもある。
結局、どこかで他の事象との折り合いをつけなければならないのである。
計画とは、ものごとを進める道具であり、計画自体に振り回されるのは本末転倒だと言えよう。
一方、多くの場合有用な道具となり得るので、その価値を過小評価するのも不適切である。
使える時は最大限に活用し、使えない時には割り切って捨てるのが、計画との正しいお付き合いの仕方であると言えよう。

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