テレビディレクター→専業主婦からの転身。字幕翻訳者に聞く「上流工程に泳いでいって、責任ある仕事を得る」方法
字幕翻訳という仕事に、外国語を学んだ経験がある人なら、一度は関心を持ったことがあるのではないでしょうか? 近年はAI翻訳の精度向上によって、その存続を危ぶむ声も聞かれますが、今でも「やってみたい」という人が多い仕事です。現在公開中の中国映画『熱烈』の日本語字幕を手がけた神部明世さんは、「字幕で人を楽しませるということは、まだAIには不可能」とこの仕事の醍醐味を語ります。一人でこつこつ言葉と向き合う翻訳という仕事。この道に進んで約16年の神部さんに、仕事の醍醐味や依頼を受け続けるための心得などを聞きました。
*****
子育ても介護も、フリーランスだから乗り越えられた
―― 字幕翻訳者を目指したきっかけを教えてください。
神部明世さん(以下、神部) もともとNHKでディレクターをしていて、出産を機に退職後、5年くらいほぼ専業主婦をしていました。そろそろ仕事をしようかなと思った時に、いろいろ候補を考えたんです。デイトレーダーになろうかなとか、個人輸入業をしようかなとか。会社に就職するには、小さい子供がいるので難しい。結局、私に何ができるかというと、大学で専攻していた中国語ぐらい。それでたどりついたのが字幕翻訳だったんです。
NHK時代に中国語会話の番組を担当していて、CCTV(中国中央電視台)のドラマを買って、面白い場面を抜き出したダイジェストに字幕をつけるという作業をスタッフでやっていたことがありました。もともと中華圏の映画が好きでしたし、その作業がすごく楽しかったことも思い出して、チャレンジしてみようと思ったんです。
―― どのように仕事のチャンスを得たのですか?
神部 いざ字幕翻訳という仕事について調べ始めると、トライアルを受けなければいけないとか、字幕にはさまざまな決まりがあるとか、知らないことがいっぱい。そこで、字幕翻訳の学校が出している本を見つけ、線を引きながらそれを1冊読みました。「1秒に4文字」の字数制限とか、「点や丸は付けない」とか、本を読んで独学したあと、インターネットで調べた未経験でも応募できる2社のドライアルを受けたのです。
ところが、トライアルを受けている間に2人目の妊娠が分かりました。下の子が生まれて「どうしよう。また振り出しか…」と思っていた頃、トライアルに受かっていた会社から半年ぶりくらいに連絡があり、「中国語のドラマの仕事があるのですが、やりませんか」と声をかけていただけたのです。子供が生まれてまだ2週間で、打ち合わせにも行けるかどうかという状態でしたが、「これを逃すと、もうチャンスはない」と思って、やってみようと決意。夫が3週間の育休を取得して上の子の世話をしてくれるというので、1週間でドラマ1話分を納品するペースで仕事をスタートしました。
―― 最初から手応えはありましたか?
神部 おそらく普通は、短い番組や特典映像などから仕事を始めると思うのですが、最初からドラマの仕事だったので、自分がどのくらい“できない”のかということすら分かっていなくて。納品したあとに、めちゃくちゃ怒られたんです。長文のメールをいただき、「よくならないようなら、ここで降りてもらう」とまで言われてしまって。もともと放送局にいたので、文字情報の整理などはできたのですが、中国語力がどうというより、字幕としてのクオリティが低いと。でも、その担当の方が「これはこうした方がいい」と1つ1つ教えてくださり、私もすぐに修正して再提出して、それでよくなったので首がつながりました。
ベテランの翻訳者さんと2人1組でやらせていただいたのですが、申し送りの仕方とか、調べ物の方法とか、生で見せてもらえたこともよかったと思います。私は本当に運が良かった。それが2008年のことですね。下の子の誕生日と、私の字幕翻訳者デビューがほぼ同じなので、下の子の誕生日が来るたび「もう○年目か」と感慨深くなります。
―― それからは、ほぼコンスタントに依頼が来たのですか?
神部 最初は半年にドラマ1シリーズくらいのペースでいただいていましたね。そういうペースが2、3年続きましたが、半年に1シリーズだと仕事量としては足りないので、新しい取引先を開拓しなければと思うようになりました。
でも、ネットで翻訳者を募集している会社は、たくさん応募が来るため、あまり返事がないんです。
何通も送ったけれど、あまり手応えがなくて。その頃はレンタルDVD店がまだたくさんあったので、面白そうなドラマの第1話を片っ端から借りてきては、エンドロールで制作を調べ、連絡していきました。そうしたら何社かから連絡が来て、その後、依頼をいただけるようになりました。
―― 子育てとの両立はいかがでしたか?
神部 フリーランスで在宅でできるというのは、とてもありがたかったです。その後、子供が学校に行けなくなったりしたこともあり、働く時間に融通が利くので助かりました。勤めていると絶対できなかったなと思うことがたくさんあります。親の介護もそうですね。
―― 集中力が要る仕事ですし、夏休みなど長期休暇でお子さんが在宅の時間が長いと大変だという声も聞きます。
神部 たしかに、保育園に預けないと集中して取り組めないというのはありますが、細切れでもできますし、仕事をしている姿が子供に見えるというのもいいなと思っています。たとえば、「これだけ翻訳したら、いくらになるんだよ」とか、「あと、ここまで訳すから、その間は静かにしておいてね」とか、具体的に子供にも伝えられますから。
「いかに相手の手間を減らすか」という配慮を持って仕事をする
―― 私も字幕翻訳の仕事をすることがありますが、中国ドラマは特に1シリーズで数十話もある作品がほとんどなので、数人がチームを組んで訳すことが多いですね。その後、校正のチェックが入り、やり取りを重ねて仕上げていく。多くの人とコミュニケーションを取る必要があるからこそ、やはり仕事をしやすい人に依頼したいというのが人情です。翻訳のクオリティ以外で、日頃から気をつけていることはありますか?
神部 「メールはすぐに返せ」はよく言われますが、加えて、ラリーを1往復減らすだけでも、相手の手間を減らせると思うんです。チェックを戻す時に、代案を1つ入れるより、2つ、3つ入れておくと先方が選べるので、やり取りが1回減る。分からないことは聞けばいいけれど、聞かなくて済むことはあまり聞かないなど、人に手間をかけさせない配慮も大事かなと思います。
また、スケジュールが合わなくて依頼を断るにしても、「このあたりから、このあたりは空いています」と先の予定を伝えておくことで、ラリーの回数を減らせますし、その頃に何か仕事があれば知らせてもらえるので、大事だと思います。
―― 途中で法人化し、合同会社「玉兔工作室」を立ち上げられましたね。どういう経緯だったのですか?
神部 字幕翻訳の仕事を何年かやっている間に、いろんな翻訳者さんとチームを組む機会がありました。当時は私より経験年数が長い人が多かったので、お付き合いを重ねていくうちに、知らなかったことを教えてもらえたり、翻訳中の作品そのものに対する理解が深まったりといった経験をしました。
翻訳者同士でご飯を食べて情報交換するような定例会を行っていたのですが、中国語翻訳の仕事がガクンと減り、翻訳料もすごく下がった時期があったんです。2013年から2014年ぐらいだったと思います。韓国ドラマの人気が上がってくる一方、「中国ドラマはこのまま終わってしまうの?」と危機感を覚えました。
そこで先ほどの「手間を減らす」という話にもつながるのですが、「何か打開策はあるかな?」と考えた先に、たとえば1本のテレビドラマのシリーズで3人翻訳者が必要な時、3人まとめてこちらで取りまとめるようにすれば、取引先の手間が減ってチャンスが増えるのではないかと思ったのです。その時に会社を作って、翻訳者さんの仕事の取りまとめをやろうと考えました。業務を拡大するというより、チャンスを増やすために会社を作ったというのが大きな理由ですね。
その後、お付き合いのあった配給会社さんから最初の仕事をいただけたのですが、それがとても大変で…。私が翻訳者を4、5人集めて仕事を振り、そのあと普段通りに翻訳作業をして納品したら、担当者から「取りまとめるのなら、誰に責任の所在があるかを明確にして、クオリティの統一をしてほしい 」とはっきり言われてしまいました。たしかに、おいしいとこだけは取れないなと、すごく勉強になりましたね。でも、法人化してみて、経理の仕事なども含め、自分の経験値になりましたし、依頼する側の大変さも分かってよかったと思っています。
そのあと何作品か、会社として作品を受注したのですが、2018年ぐらいから急に中国ドラマのブームが来て、翻訳者がすごく忙しくなってしまった。仕事をお願いしても、皆さん「今は無理」という状況になり、やはり自分も取りまとめだけではなく翻訳がしたいので、最近は自分1人で翻訳するパターンがほとんどになっています。
同じ作品の翻訳なのに、報酬がまったく違うことも
―― 字幕翻訳者の仕事は「やりがい搾取」「AI翻訳の普及で単価が低迷している」など、ブラックなイメージもあります。神部さんが感じる「改善が望まれる点」はどういう部分ですか?
神部 私自身は、めちゃくちゃおいしい仕事だと思っているんです。だって、仕事って本来大変じゃないですか。働きに行って、めちゃくちゃ怒られて、時給1200円という仕事もあると考えると、映画やドラマを見て、考えて、解釈して、納品したあとも直してもらえて…。「これでお金までもらえるの?」みたいな気持ちがあるんです。
もちろん、安すぎる単価の仕事はひどいと思うし、そういう仕事を受けないのは大事なのですが、「どこからお金が出ているのか」と考えた時に、売り上げが見込めない作品なら、その提示額しか出せないことも理解できます。
私の最初の仕事がそうだったように、仕事を経験のない人に依頼した場合、担当者の手間もかかります。会社がその担当者に払う給料や時間とのバランスを考えると、翻訳者には安い報酬しか提示できない。安い仕事が来るということは、自分の仕事に他の人の手間がかかっているということ。その作品全体、会社全体の予算で、どれぐらいの割合のお金を自分がもらえるのかと考えたときに、「やりがい搾取」と言えるのか、「バランス的には妥当な取り分」と言えるのか、そこには違いがあると思います。
私が翻訳会社ではなく、(配給会社や番組の放送局・配信元など→字幕制作会社→翻訳会社…といった産業構造の)上流にある制作会社から仕事が欲しいと思ったのは、その方が翻訳料がいいと思ったからなんです。引き受ける側にもビジョンが必要で、安い料金の仕事を依頼している会社が全て悪いわけではない気がします。
字幕翻訳が、映画やドラマが好きな語学学習者への「やりがい搾取」と言われることもありますが、大元の会社が出している金額は多分そんなに変わらなくて、どこかで手間や人件費がかかっているから金額が下がっているのだと思うのです。
ネットフリックスがサービスを開始した当初、すごく安い金額の仕事の依頼がたくさん来ました。なぜかというと、孫請け、曽孫請けまで仕事が下りてきていたから。同じ作品だと思われる依頼が2社から来て、その報酬が全然違うこともありました。それはたとえば(構造の)2段目の会社か、6段目の会社かの違いだったりするから。安い報酬でその会社が儲けているわけではなく、構造的にそこに位置する会社からは少ししかもらえないのです。そうであれば、もっと上流にいる会社――レベルが高いということではなく――に泳いでいって、そこから受注するほうが報酬は上がるのだという、構造を理解して働くことが必要かなと思います。ただその分、果たすべき責任は大きくなりますよね。
AI翻訳と「楽しませる字幕」は違う
―― AI翻訳の精度が上がり、字幕翻訳という仕事自体がなくなるのでは?と懸念する声も聞かれます。仕事環境に何か変化はありましたか?
神部 今はないですが、「先の長い仕事ではない」という感覚はあります。翻訳アプリの精度も上がっていますよね。でも、字幕は作品を楽しむためにあるもの。言葉を理解するためだけのものではないと思うのです。セリフの原語の意味を1つずつ理解したいという人にとっては、AI翻訳はいいと思いますが、「楽しませる字幕」を求めるのであれば、もうしばらく人の手が必要だと思っています。
たとえば中国時代劇の翻訳で、漢詩の引用が登場した時、「引用の意図は何なのか?」ということが日本人には分からない。そういう時、日本語字幕にちょっと意味を足してあげるとか、ニュアンスを足すことで、理解を助けるという作業が結構あります。これはAIにはできない仕事ですよね。また、中学生が見る前提なのか、専門家が見る前提なのかでも訳文が変わってくる。そういう調整には、もうしばらく人の手が必要だと思いたいです。
―― 字幕を手がけられた中国映画「熱烈」が公開中です。主演の王一博(ワン・イーボー)は中国のトップスター、五輪競技としても注目されたブレイキンが題材ということで、中国映画ファンの間で公開前から注目されていた作品ですね。
主演の王一博(ワン・イーボー)は日本にもファンが多く、皆さんすごく楽しみにされていると思うので、頑張って取り組みました。こういう期待作や話題作のご依頼をいただくとすごく嬉しいのですが、映画の場合、翻訳が終わってから公開まで半年くらい期間が開くので、その間に「ああしておけばよかった」と後悔することが結構あるんです。
まだ情報解禁前ですが、今待機中の作品も数本あって、すっごく胃が痛い(笑)。以前はSNSでのエゴサーチも楽しめたのですが、段々できなくなってきました。経験を重ねて自信がつけば平気かと思っていたのですが、逆でしたね。間違いを指摘されるのが怖いというより、「失望させたらどうしよう」という気持ちが強いです。
自分でもいい作品だと思っていればいるほど、納品した時点で完璧な訳を出して、自分が見ても楽しめるようにならなければいけないと思うのですが…。そこが自分の伸びしろだと思って、今後の課題として頑張っていきたいですね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?