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取捨選択のその先

考えさせられた平田さんの記事。

現代の日本社会というのは便利なもので、スマホひとつでいつでもどこでも大抵のものは手に入れることができる。さらにコロナにおいてそれはさらに進化を遂げ、Uberをはじめとしたサービスによって食事の調達をも容易にできるようになった。
もちろんコロナという情勢のため便宜上必要となった面も大いにあるが、それの代償として人との関わりという部分は多かれ少なかれ ”失われてしまった” 面であるといえるだろう。

人間生きる過程において日々小さなことから大きな決断、ありとあらゆる取捨選択をしながら今この瞬間を生きている。ちょっとした買い物もすごく悩んだりする。わたし自身も優柔不断のため度々悩むことがしょっちゅう。特に今は調べることが容易なため、困ったらすぐ検索。口コミチェック。結果また悩むというループに陥っている。あれ、なんのために調べたんだっけ?



最近心に刺さった言葉がある。

『今ある情報の全ては、ある人の視点であって、自分の視点ではない』

本当にその通りだと思った。
巷に溢れている口コミや評判は確かに参考にはなるけれど、その人のいち意見でしかなく、実際のところは自分自身で体験してみないと分かりっこないのである。であれば、何でもとりあえずやってみよう。人に合っても自分には合わないことなんて当たり前のことなのだ。もちろんアドバイスを受け入れることも時には必要なのでそこはうまいことバランスよく(ここが一番難しいかもしれない)。

こんな現代だからこそ、その場の出会いと直感が大事なのかもしれない。実際お店に行くと店員さんのちょっとした優しさや暖かさを感じることができるし、それぞれ独特の空気感が存在する。それがまた新たな出会いを呼び寄せたりして人は繋がっていくのだろう。


スーパーで買ったキャベツの生産者を私たちは知らない。どういった地域でどういった環境でどんな栽培方法でどんな経路でこのスーパーまで運ばれたのか。そこまで知る必要はもちろんないかもしれないが、ふと少し立ち止まって考えてみると見えてくるものがある。
今着ているこの服はどうやって作られているのか、このスマホは?音楽は?

私たちの身の回りにあるもの全ての製品にはそれぞれのバックグラウンドが存在する。量産されている服は海外製のものがほとんどではないだろうか。その現地の生産者は果たして幸せな環境にいるのだろうか。

特に飲食をしている身からすると日本の外食の安さが引っかかる。
 販売価格が安い=従業員の給料が安い
となってしまっている。
その上価格競争が起こってさらに安さを求め、過酷労働など問題となっている。
過酷な労働環境上、粗悪な商品が出来上がり品質も悪くなり悪循環である。さらに効率重視大量生産のため栄養のことなど度外視され、消費者の健康すらも害してしまう。

私たちは安くて良いものを追い求めるが、安いものには理由がある、そう考えるのが道理。もちろんわたし自身常にそれを考えている意識系なわけでもなければ普通にスーパーに行くし100均で買い物する事もある。けれど最近は少し高価でも良いもの、長持ちするものを選んでいきたいと思うようになった。時々なぜこの値段で販売されているのかと振り返ることだけでも色々なことを知るきっかけになるだろう。


日々の選択。そこに隠れた人々の努力や環境を自分で消化し受け入れることがこれからの私たちには必要なことなのかもしれない。




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