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これは、自分のやる事なのだと腑に落ちた

TEXT&PHOTO BY MOMOKA YAMAGUCHI
※フリーペーパーSTAR*18号掲載記事より

中村泰典(なかむら やすのり)さんは、NPO法人倉敷町家トラストの代表理事として、倉敷の町家や町並みを保全しながら、地域の生活文化を伝える活動をされています。そんな中村さんに町並みと歴史や文化の継承についてお話を伺いました。


「これは自分がやらないといけないことだ」と思った


NPO法人倉敷町家トラスト(以下、トラスト)が2006年に設立される前から、中村さんは環境活動や市民活動をしていたそうです。その活動の中で現在のトラストに影響を与える出来事があったと中村さんは話します。

「トラストができる前、ある人が『ここに住んでほしい人がいるので、空き家がないか探してほしい』と相談にきたことがあった。わしはこの町で人生のほとんどを過ごし、市民活動もやっていたが、それまで町にどれだけの空き家があるかなど知らなかったし、興味もなかった。だが、実際に周りを見てみると結構空き家があったんじゃ」

中村さんはその事実に衝撃を受け、さらに空き家の調査をしていると、一軒の町家が空き家になっているのを見つけました。この時、中村さんのなかでこれまで自分がやってきた市民活動の意義とこの町家の再生が結びついたそうです。「これは自分がやらないといけないことだ」と感じた中村さんは、「この町家を直そう」と色々な人に声を掛け協力しながら町家を直しました。今では「御坂の家」と呼ばれ、宿泊可能な施設として利活用されています。その後、この活動を仕組みとして作ろうと思った中村さんは、NPO法人倉敷町家トラストを設立しました。ですが、町家を直すだけでなく、町並みや地域の歴史、文化を意識しながら活動するというのはあまりにスケールが大きく、並大抵のことでは活動の継続はできません。中村さんはトラストの活動の中で腑に落ちたことがあるからこそ、ここまでやってこれたと話します。

「トラストの活動をやっていると、古い建物はこの土地で育った木材と地元の大工の手で作られていたのだと知ることができる。家は地元と切っては切れない、そういうもので作られた空間で、そこで文化が生まれ、人が住んでいたのだと気付かされる。それこそ『刻まれた記憶』というものは物理的な空間があるからこそ、五感で感じられるもの。文字の彫られた一本の石柱を残したのとでは感じ取れるものも大きく異なると思っている。
わしは物理的な空間こそがまちにとっての『刻まれた記憶』であり、まちそのものの「拠り所」になるのだろうと思うし、それを感じ取れるからこそ自分はここに根を張って生きているんだと自覚できるのだと思っている。だけどこれは理屈で説明ができるものではなく、感覚的なもの。トラストの活動の中である人から言われた。『あんたは【まちづくりの極道】になっとる』と。この言葉が強く印象に残っている。
人はそれぞれ趣味があり、お金をつぎ込むことで趣味が道楽に変わるらしい。そこからさらにお金でもなく、好きでも嫌いでもなくやっていること、これが道を極める、つまりは『極道』なのだと。そこでわしは、あーなるほど、と腑に落ちた。頭でも心でもない正しく『腑』。だからこそ、ここまで活動してこれたしこれからも続けていきたいと思っている」

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中村さんのお話を聞きながら倉敷の町を歩いていると、私の中の町の解像度があがっていくような気分になる。普段何気なく歩いている道がもともと土の道路だったとか、川畔では船がつけられて荷物の積み下ろしをしていたとか、あのお店は元々お菓子屋でむらすずめをおやつに買っていたとか、細長い石が地面に埋め込まれるようにして敷かれているところは水路があった頃の名残だとか。ごく小さな「刻まれた記憶たち」を中村さんは町の歴史や自身の思い出とともに話してくれる。そんなお話を聞いていくうちに、私の目に映る景色の上に中村さんのお話がレイヤーのように重なっていく。一人で町を歩いていたら通り過ぎてしまうような「刻まれた記憶の気配」。それらを探す楽しさを教えてくれたのが中村さんだ。

過ぎていく時間の中でこれからも変わらず何かが生まれ、消えていくのだろうが、「ここに確かに何かがあったのだ」という感覚は私の中で残り続けるのだと思う。私は私の中に刻まれていくこの町との記憶をこれからも大切にしていきたい。


倉敷町家トラスト東町拠点の蔵の屋根に葺かれていた瓦。真備町箭田にある八田神社の紋と同じ、丸に十字の紋が掘られている。昔は瓦が真備町で生産されていたそうだ。
倉敷の路地に水路があった頃の石橋。 町の記憶の一つとして残っている。


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