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心の傷や苦しみの基準はいつだって「絶対的」であり「相対的」ではない。

無意識のうちに、自分の脳内でやっていた癖がありました。

私は、
虐待を受けた訳じゃないし、
パワハラを受けた訳でもない、
育児放棄されたこともないし、
金銭的に困窮したこともない。

世間一般的に見る心の傷やトラウマ、
最近に至っては「毒親」という言葉もあるぐらいだが、
そういった環境と比べてみれば、私は恵まれた場所で育ってきた。

なのに。
どうして、こんなに心の痛みを感じるのだろう。
どうして、こんなに親や家族を憎んでしまうのだろう。
どうして、その痛みから目を背けることができないんだろう。

そうやって見ず知らずの”他人の何か”と”自分”を比べて「自分の痛みや苦しみは、理解されないものだし、持ってたらおかしいもの」という烙印を押し続けていました。
今はだいぶ減ってきたけど、余波は強いのです。

だけど、そんな自分をなだめてあげる言いようは、もう十分知っています。


比較しても辛いだけだし、自分の為にもならないから、しなくていいよ。

そんなに自分を責めなくていいんだよ。

苦しみや辛さは比べるもんじゃないし、勝ち負けも優劣もないよ。


何度でもそう言えるし、他人にそう言ってあげたこともあるかもしれない。

だけど、自分の心と身体は、その正論に納得がいかない。


どうして、こんなにも納得いかないんだろうか。
いや、納得”したくない”のだろうか。

そう思った時、純粋な答えがふと浮かんできたのです。

本当は、痛みを感じたい。
もう自分を抑圧する頑張り方なんてしたくなんてない。
普通がなんだかんだって、クソくらえなんだ。

ちゃんと、苦しみたいのだ。
他人の意見とか、世間の常識とか、色々と無視して、ただ自分の感覚だけに、素直になりたいだけなのだ。

だから、理性で何を言おうが、他人からなんと言われようが、それは私の心と身体には消化されない。

気が済むまで、「苦しい。辛い。もう嫌だ。」をやり切らない限り、正論や意見は、全く持って入ってこない。断じて、受け入れず。



私は父の影響で、感情感覚の次元の話を、論理思考で返されるコミュニケーションが心の底から嫌いです。私が何かに対して辛いと言えば「考えないようにすればいい」と言う父。……そういう問題じゃないんだよねぇ。

考えないようにすれば、抑えつければ、忘れてしまえば――

そんなのは、言語道断。私が一番、自分にしてあげたくないことです。この人は、辛さや苦しみを感じることさえ、もう諦めてしまったんだなぁと感じたし、私が最も欲しかった親としての機能を全く持っていない人なのだなぁと、今でも新鮮に絶望してしまう。
(期待しなきゃいいと言う人もいるが、子は幼少期から親に認められ、受け止めてもらってこそ、心の土台が出来上がる。それは歳を重ねても変わらない。)

「考えないようにする」という対処療法は、長い目で見た時、さらに体調や心の状態が悪化することが目に見えている。

自分の感情を置き去りにするということ、そして、置き去りにしてることすら気付かないことは、時に死を選ぶほどに代償が大きい。私は20代のうちに悟ってしまったからこそ、確信を持って、そう言える。

心の痛みも、苦しみも全て、絶対基準なのだ。相対基準では決して、ない。断じて、ない。

「うちは毒親じゃないけど…」という私のような家庭で育った人は、潜在的にかなり多いと思う。毒親と言うほどではない、みたいな。
でもね、そういう人でも、痛みや苦しみを感じて当たり前なんだよ。感じて良いのだよ。

だから今日も、そんな自分の思いを受け止めてあげることに全力を尽くすのだ。

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