見出し画像

04.高校時代

今日は、自分の高校時代について書いていきます。

高校は、やっぱり青春ですよね。
私は中学3年から受験勉強し始め、東京の都立青山高校に進学しました。

青山の一等地で、神宮球場と秩父宮ラグビー場と国立競技場に囲まれており、本当に高校生にはもったいない立地だったと、今は特に感じます。
都立青山高校出身の主な芸能人だと、
滝川クリステルさんとか、石田純一さんとかがおります。
受験の時は、名前がかっこよいからという理由一択で、
第一志望にしてましたね(笑)

もっと、健全な動機があるはずですが、
当時の自分にはその理由しか思いついてなかったんだと思います。

強いて言えば、屋上に屋根付きのプールがあり、
タワマンの屋上みたいで格好良かったのとか(笑)

高校には本当にお世話になりました。
自分にとって大きな成功体験を積ませてくれた環境だったと思います。


高校を通しての大きな気づき

3年間を通して様々なことを学ばせていただきましたが、
自分が成功体験を積むために必要だったことは、以下の三つです。

・笑いを取ること
・高い基準にふれること
・勝つために必要なのは何か考えること

中学時代、大会に参加しても、毎回参加標準記録を切れず、周囲の参加者から遅すぎて、痛い目で見られている時代から、東京都で第3位の実績を獲得するまでには、三つが必要でした。

・笑いを取り、楽しむこと

これは、同期の大田区在住の碩太(おうた)君の影響がでかいです。
この時から、人は環境の影響の生き物だと思いはじめていました。
当時の公立中学を出ていた千葉少年は、色んな人種がいれども、
塾にいる時間が多かったので、結構まじめな人たちと過ごしていました。
そのため、かなりまじめで落ち着いた印象だったと思います。

その中で、高校に入学して出会った、この碩太君は、
悪ガキで、ロン毛でカチューシャをした格好で、
大きなヘッドホンを首にかけて、いかにも高校デビューのような感じでした。

チャラ碩太

そんな碩太君は、入部して、1週間ぐらいでの初めての
プールサイドでの掃除中に、早速、傍若無人ぶりを発揮し、
真剣に掃除している一年生をボーリングのピンのように扱い、
ぶつかっては倒して、けたけた笑っているとても嫌な奴でした。
こんな先輩はいやだなぁと思っていたら、同じ一年生ということを知り
絶対にこいつには負けねぇと怒りに燃えていたのを今でも覚えてます。

そんな碩太君ですが、お笑いには貪欲で、裏でのリーダー的な存在でした。
突拍子もない行動を人にも強要して、プールサイドでの脱衣バドミントンや、〇裸水泳、部員全員を坊主にするなど、変な企画の際にはいつも先頭にいました。特に、自分の後頭部にSという文字を剃って、ふさふさのロン毛から、坊主にした状態で、練習に参加してきたのは衝撃でしたね(笑)(チーム名がASTという名前なので、その頭文字のSを頭で表現してました(笑))

今となっては、大きな出会いだったと感じてますが、
何が良かったって、笑いがあるとチームの雰囲気が良くなるんですよね。
当時は、お笑いでも負けてやるもんかと、必死に体張って、ボケてましたが
そんなこんなやっていると、いつの間にか、笑い合って、怒ってたこととか
ギスギスしていた関係が解消されるんですよね(笑)
継続していく関係性を作るためには、とても重要だと感じています。

・高い基準にふれること

これは、同期の勝哉君(通称ゴリ君)のお話なのですが、
スラムダンクの赤木キャプテンにとても似ていて、ウホって言葉が
よく似合うスイマーでした。
これもまた、プール掃除をしているときに、なにやら背中にTOKYOという文字が書かれている、確か国体に出ないともらえないシャツを着ている二人組がいて、当時の千葉少年は、なぜこの高校にこんなやつがいるんだと、とても慌てふためきました

[第1話]ハイキュー!!最終ページより

ハイキュー!!の影山と違い、顔は知らなかったのですが、
全国中学で優勝争いをするような選手で、なぜ都立高校に!
と始めは思ったのですが、よく話を聞くと、親が先生をやられていて
文武両道のご家庭だったから勉強もしていたとのこと。水泳を1年ぐらい休んで、受験に専念していた自分からしてみたら、雲の上の存在でした。

そんな、ゴリ君と一緒にいたからこそ、いままで見ることのできなかった景色をイメージすることができ、自分の可能性を信じることができました。

・勝つために必要なのは何か考えること

望むものを手に入れるためには、今まで握りしめていたものを
手放す決断をする必要があると考えております。

私は高校1,2年時、400m、800mの自由形を専門にして
大会に出ていたのですが、中長距離はタイム決勝だったので、
予選、決勝と別れているレースに出たことがなく、
どうしても決勝のレースというのにあこがれを抱いておりました。

2年時の東京都大会が終わり、コーチ陣と話し、どの種目に出れば、
決勝に残る可能性が高いか、データ分析を行い、現状の1,2年生の実力と
中学から上がってくる選手の実力を考慮して、個人メドレーに出場することを決めました。

正直、個人メドレーはとても苦手で、
クラブチームで行っていた2か月に一回の記録会では、
緊張で、直前におなかが痛くなることが、しばしばありました

ただ、やると決めてからは、苦手な種目でも、
勝てる可能性が高かったので、決勝に残ることをイメージして、部活動と地元のクラブチームを掛け持ちして、泳ぎ続けました。各種目のフォーム練も、それぞれのトップアスリートに教わりながら、こなしていきました。勝つイメージが明確だったので、練習もとても楽しく、専門種目以外の練習もできるので、飽き性な自分にはとても向いていたと思います。

また、決勝に残るボーダーラインも意識していたので、各種目をどれだけ伸ばせばよいかも明確となり、各試合で、短距離のトップスピードを上げる練習もしていたので、どれも新鮮で楽しかったです。

今まで特化していた種目を変えるというのは、不安がつきものだと思います。ただ、それでも勝つことをよりイメージできたからこそ、
あの時決断できたのだなと感じてます。
やってきた練習や、試合の詳細はまた、どこかで書こうと思いますが
自分にとってはかけがえのない経験でした。

まとめ

みなさんはどんな高校時代をすごしていたでしょうか。
がむしゃらに何かに打ち込むって、なかなか経験できないですよね。
自分はこの時の経験が、今に生きていると強く感じてます。

水泳という経験を通じて、精神的にも強くなれましたし、
何より、水泳から派生して、ダイビング、サーフィンも経験できたことが
本当に良かったと思います。

これからも、多くのことにチャレンジしていく人生にしていきます!

次は、ダイビング歴10年、ダイビング本数500本強、潜った海は100か所以上のダイバー千葉がお届けする、お勧めのダイビングポイント3選をお届け予定です!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?