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コミケに現れたヴィーガン活動家について

1.はじめに

この記事は、友人から「コミケにヴィーガン活動家が来てたぞ」と聞いて書いている。
私自身はコミケに一度も参加したことがなく、必然、今回の騒動は聞きかじったものでしかない。
とはいえ、いわゆる“過激派”ヴィーガン活動家には思うところがあるので、こうしてつらつらとタイプしている次第だ。

今回予め断っておきたい事が一つある。
ここで“過激派”ヴィーガンを、ヴィーガンとしてのみ記載する。
なぜなら一々”過激派”と入れるのが面倒くさいからだ。

さて、どうも今回のデモ活動は許可を得て実施しているらしい。
ソースはネット検索レベルである。ヴィーガンに限った話では無いが、なんだかんだ国内でのデモ活動はしっかりと行政の許可を得ているケースが多いように思う(内容はともかく)。
手続きを守る事は重要だ。

行政の許可を得ていて、イベント会場近くでの活動はリーチ(※)も稼ぎやすい。非常に合理的かつ効果的なデモ活動であるように思える。
※広告を見た人数をこう呼ぶらしい

だが実際には菜食主義に対する反応は薄く、彼らの主張は伝わっていないようだ。むしろ敵対的な反応や、嘲笑が多いように思う。

なぜだろうか?

端的に言えば、「やり方と主張の内容が悪い」のだ。

2.主な反応

コミケ会場付近でヴィーガン活動、反肉食デモに対する反応は概ね以下の3つだ。

 1)ふーん、おれは肉食うけどね
 2)せっかくのコミケなんだから、本作って出せば良かったのに
 3)グロ画像見せんなや(屠殺写真の掲示があったそうな)

1)に関しては、まぁ挑発的なニュアンスが含まれている場合が多いとはいえ、まっとうな意見だ。あなたは野菜しか食べない、私は肉も野菜も食べる。意見の相違という、ごくありふれた状況だ。

2)に関しては、デモ活動へのアドバイスである。正直私もこれには賛成で、彼らの主張を広めるには有効かつ、理性的な手段であると言える。

3)に関してだが、後述の内容と重複する部分があるため、本記事の最後に回したい。ただ、掲示内容が行政から許可されているものであるのなら、私としては問題無いと考える。

ざっくり調べた感じ、景観保護やらなんやらで警告はされそうだなぁとは思ったが。

3.彼らは何を間違えたのか

きちんと手続きを行って、許可の元、活動をしている。
ではなぜ、今回に限らず彼らの主張はこうも人(というか私)の心に響かず、反感を育てるのか。

私が考えるに、1)手段 2)主張内容が悪いのだ。

1)手段が悪い
国内国外で様々なヴィーガン活動が行われているが、似通った手法とし「屠殺写真を掲示する」というものがある。
これは時にイベント会場(肉フェスで行われたこともある)や、駅前などの往来で行われるが、ステーキハウスなどに押し入る事もある。

彼らとしては「食肉は動物たちにこんなに酷い事をして成り立っている」「可哀想な動物の事を考えて!」と訴えたいのだろうが、はたして如何ほど効果があるのだろうか。
正直効果は無いと思うし、逆効果ですらあるだろう。

なぜそうなってしまうのか。それは、この手段が抱えるいくつかの問題が原因だ。

まず第一に、シチュエーションの問題がある。
往来での掲示はともかくとして、肉フェスやステーキハウスで行う場合、逆効果であることは疑いようがないだろう。
参加者や客はその食事を楽しみに来ており、食事の内容は当然、肉だ。
その真横で「肉を食べるな!」「肉食は残酷だ!」とがなり立てたところで、楽しい気分を台無しにされた人々が、彼らに反感を持つことは想像に難くない。

第二に、掲示内容の問題だ。
私は正直、屠殺写真を見せられたところで「はァ、まぁそうやってお肉になりますよね」という感想しか出てこない。だから何……?という状態だ。

しかし、人によっては血や肉が苦手な人もいる。
パックに入った肉は平気でも、今まさに解体されている場面の写真となると、「痛そう」「グロい」「気持ち悪い」という感想を持つようだ。ソースは私の母親。

この場合、感受性?(多分共感性ではないと思う。動物に共感……?)が強い人は、家畜に対して「かわいそう」と思う事もある……のだとは思う。だが、だから食肉をやめなきゃ!とはならないのではないか?
むしろ、そんな写真を見せつけてくる彼らに対する反感を育てるだけではないだろうか。

第三に、感情論がベースであるという問題だ。
次項での「主張内容」とも重複するが、社会を変えたいのであれば感情論で働きかけるべきではない。感情論で働きかけて返ってくるものは、感情論だ。確かに感情は、人間の行動と切り離せないファクターだが、あくまでも個人・個人間での好悪でしかないし、またそうあるべきだ。

もし本気で社会を変えたい=肉食を無くしたいのであれば、なぜそうしなければならないのかを、しっかりと論理的に語るべきだろう。でなければ彼らの活動は聞き流されるばかりか、反感を育て続けるだけのものになってしまう。
 
第四に、訴える先を間違えているという問題だ。
彼らは個人へ訴えることで世論を変え、前へ進もうとしているようだが、無意味であるとしか言えない。

世論=社会における一般的な意見=個人の意見の集合体であるからして、一見すると個人にアプローチする事は、遠い道のりではあるものの、確実な一歩であるように思える。彼らは個人が肉を買わない事で社会を少しずつ変えていけると思っているようだが、おそらくそれは絵空事に終わるだろう。

私が明日、肉をひとパック買わなかったとして、別の誰かが買うか、廃棄されるのがオチだ。

ではそれが私ひとりではなく、何百、何千、何万という人だったら?

それでも影響は少ないだろう。
日本の世帯数は2023年時点で5445万2千世帯(※)。
例え1万人の考えを変えても、全世帯数の1%にも到底及ばない。
たかだかその程度で産業は止まらない。
(※)厚生労働省「2023(令和5)年 国民生活基礎調査の概況」に拠る

そう、「産業」だ。気をつけたいのは、食肉・肉食が「産業」の枠組みに組み込まれている点だ。
一般家庭に食肉が届くまでには、畜産(生産)・解体・加工・小売という各業者を経由する。各所を繋ぐ流通、卸し業者の存在も忘れてはいけないし、各所で使う産業機械やその部品メーカーも関わっている。だからこそ消費者が多少減ろうが、おそらく市場は小揺るぎもしないだろう。輸出については触れると脱線しそうなので割愛。

もっとも大多数の消費者が去れば、流石に産業構造も崩壊するだろうが、個人レベルへの働きかけでそうなるころには、南極の氷はすっかり溶けてしまっているだろう。まったくもって、無意味である。

先に企業・政治に働きかける方法を考えた方が現実的ではないだろうか。
ただ、畜産に関わる各企業がそのまま別の事業へスライド出来るとも限らず、畜産農家はストレートに廃業するだろうから、彼らの就労先という大きな問題が残るが……

2)主張内容が悪い
主張内容にも大きな問題がある。
彼らの主張は大まかに
 ①家畜への配慮
 ②地球保全(持続可能社会)
 ③健康促進

が挙げられるだろう。
これらは複数のNPO法人のHPから抜粋したので、見た記憶がある人もいるのではないだろうか。

①家畜への配慮
1)で触れた通り「感情論でしかない」という問題点がある。
曰く、「動物にも痛みがある」「感情がある」「かわいそうだ」「生命の尊厳を」。
私の感想としては「そっすか……それで?」だ。
ぶっちゃけ、だからなんなんだとしか思えない。

まず「感情がある」という点だが、感情というもの自体、私達のそれであっても定義が定まっていない。
日本感情心理学会の「感情とは何か」という論や、IEEJ Journal(電気学会の機関誌)に掲載された「人の感情を測定する」という研究解説でも、「感情とは何かの合意・定義は出来ていない」と結論付けられている(はず)。

人間の感情の定義すら出来ていないのに、「動物に感情がある」と言われても、「あなたのファンタジーでは?」と思ってしまうのは私だけだろうか。
まずなぜ感情があると思ったのか、そしてその感情とは何なのかを明示して頂きたい。

他の要素だが、おそらく「動物にも痛みがある」し、「一方的に命を奪う行為」だから「かわいそう」だし、「生命の尊厳」への冒涜だ、という事なんだろう(多分)。
率直に述べるなら宗教か、よほど傲慢か、何も考えてないかのどれかだと私は感じた。なお、宗教だった場合、信仰の自由があるのでノータッチで行きたい。

「一方的に命を奪う」という点に目を向けてみよう。
確かに自然界において、多くの場合、捕食者と被捕食者は一方的とは言いがたい関係性を築いている。被捕食者は擬態し、逃走し、時には反撃して身を守る。逆に捕食者は罠を張ったり、進化の過程で身体能力を向上させたり、隠密性を高めたりして日々の食事にありついている。

現代の畜産システムは、確かに一方的に見えるかもしれない。だが、それは人間の社会的進化の結果と言えるのではないだろうか。
安定した糧を得るために、我々は農耕に手を出した。その過程には品種改良をはじめとする多くの試行錯誤があった。畜産もこれは同様で、野生動物の家畜化という難行を乗り越え、今日に至っているのだ。余談だが、家畜化は非常に困難で、実現出来た動物は極々少数だ。

これは長い人類史における闘いの果てに得た成果であり、非難されるべきものではないだろう。
 
また、より簡単に述べるのであれば「生命の尊厳」というキーワードが必要になってくる。
この「生命の尊厳」は人間が作り出した概念であることは説明の必要もない。なぜこうした概念が登場したのかというと、おそらく暇だったんだろうと私は考えている。

宗教的、あるいは哲学的バックボーンがあったのだろうが、人間が自身の生を安全に過ごせるようになり、後付けした概念であることは疑いようがない。だが、私達人間はとどのつまり「動物」だ。

動物は自然な営みとして、栄養を取り込み、子孫を残す。人間が肉を食べるようになったのは、その必要があったからで、野菜も食べるのもまたしかりだ。
で、あるならば。今日の私達が肉を食べることはごく自然なサイクルの一部であり、本質的には善も悪もない、ただの生態なのだ。

そこで「生命の尊厳」を守ろう、動物が「かわいそうだ」と言うのは、「人間=動物」である事を忘れた傲慢なものの見方ではないだろうか。

忘れてはいけない、私達は動物なのだ。

というかそもそも、植物はオッケーなのか? 植物だって生命だが……
植物には痛みがないからセーフなのだろうか。痛みの有無が重要なら、家畜に全身麻酔をしてから屠殺・解体すればセーフになるはずだが、おそらくそうではないと言われそうだ。二律背反は良くないぞ。一気に説得力が無くなる。

②地球保全(持続可能社会)
これは昨今流行のSDGs、カーボンニュートラルの事だろう。
エコに関しては、そもそも人間の営み自体が自然の産物なのだから……と脱線したくなるが、完全に脇道に入ってしまうのでここでは控える事にする。

さて、過去に私が聞いた主張では概ね以下の内容だった。
 ・畜産業での温室効果ガス排出量が多い
これは本当なのだろうか。

論拠となりそうなものは、リース大学の研究結果だ。私は英語がちんぷんかんぷんなので、ELEMINISTなるHPの記事から抜粋すると、「肉類は生産時の温室効果ガス排出量が多い」「ベジタリアンの食事より59%も多くの温室効果ガスを排出している」といった内容だった。

……うーん。原文を読めない以上なんとも言えないが、カロリーあたりの排出量なのだろうか? それとも作付面積?

光合成をする以上、畜産より農耕の方がCO2排出量は低いように思える。ただ、肉食を菜食に置換する場合、タンパク質と脂質の量を植物で補う必要が生じる。
ぱっと思いつくのは豆類だが、置換する場合のコストや新たに開く農地 ──農地をつくるのにも伐採や焼き畑が必要だ── と釣り合うのだろうか。

※以下、データの話なので読み飛ばしてもいいです

また、アニマルライツセンターのHPでは「ハンバーガー1個分の肉を生産するのに、コスタリカの熱帯雨林を伐採して焼き払うと75kg」「人間に起因する二酸化炭素の1/5は畜産業によるもの」と記載されている。
前者に関しては何故コスタリカの熱帯雨林を伐採しているのかが理解出来ない。マジで言ってんのかお前。

「1/5は畜産業」という点にも疑問がある。環境省による「2022年度の我が国の温室効果ガス排出・吸収量について」に拠れば、CO2排出量において「産業」は全体の34%、この内訳で農林水産業は(おそらく)食品飲料に含まれると思われるが、そのシェアは5.3%。全体の20%には到底及ばない。
※CO2は同調査において、温室効果ガスのうち91%のシェアを占める。

また、世界に目を向けると、農林水産省の2022年の報告「農林水産省地球温暖化対策計画について」から、温室効果ガスの排出量は2007-16年平均で、農林業その他土地利用が全体の23%。これは農業約12%、林業その他土地利用で11%。オイまた計算合わねーぞ!!

※データの話終わり
 
官公庁の調査に拠れば、温室効果ガスの排出の多くは産業(鉄鋼・機械・化学工業)からとなっており、正直そっちをどうにかする方が効果がありそうである。

例えば技術発展を諦めて、生活レベルを落として……
そんなこと、おそらく多くの人間は許容しないだろうし、産業縮小に必ずついて回る雇用の問題もある。

個人的には、稼働中の装置(文明社会)は壊れるまで止まらないんじゃないかなぁ、と諦観している。
人間が本当の意味で欲望をコントロール出来たことなど、あっただろうか。

まぁ、栄養素・カロリー・コストと温室効果ガス排出量の問題がクリアになっているのなら、「地球保全のため」という主張は筋が通っているだろう。はやくデータ見せてくれ。

③健康促進
ようやく最後の項目である。
まだ読んでくれている人、有り難うございます。
あなたの意見を是非、コメントで教えて下さい。

さて健康促進についてだが、動物性/植物性栄養素の違いによって人体に影響はあるんだろうか。

ざっくり調べたところ、菜食主義のメリットは「ダイエット」らしい。
曰く、肉類はカロリーやコレステロールが多くあるため、生活習慣病予防になる……らしい(株式会社スマートテックHPより)。

それは本人の食事量の問題なのでは……?
ポテチ(芋)とかの方がカロリーとコレステロール多いのでは……?

また、日本スポーツ栄養協会が取り上げている論文(またしても英語だった)に拠れば、乳児の菜食主義による影響に関し、有意な研究結果が無かったとされている。同様に身体的、および神経認知的発達(むずかしいね)に及ぼす影響を評価する研究も無かったようだ。

逆に、菜食主義による栄養素の不足からの症例は多く認められたそうだ。
悪影響じゃねーか!

結論として子供へは非推奨として締めくくられているため、この主張もまた、受け容れ難いものであると言える。
もっとも、大人に対する影響には触れられていなかったため、有意な結果がある可能性もあるが、正直雑食の現状で不備不足が出ていない以上、切り替える理由としては薄いだろう。

4.結論

がんばって短く収めようとしたが、それなりの長さになってしまった。
さて結論だが、ヴィーガンの主張・デモ活動が人々(というか私)に受け容れられないのは「手段の悪さ」「内容の悪さ」が原因だ。

最悪、内容さえ良ければ「まぁやり方はよくないけど、言ってることは正しいよね」と受け容れられるのだが、いかんせん根拠が弱い。というか無いに等しい。正直、「菜食主義サイコー!」という彼らの気分に後付けされた主張であるように感じる。

それを他者に、さも良い物かのように、あまつさえ押しつけようとしてくるワケだ。受け容れられる理由が1ミリも無い。
頼むからちゃんとした論拠を持って、論理的に話をしてくれ。

ただ、彼らの言い分や活動を批判(批難ではなく)する際に気をつけたいことは、「感情論で返してはいけない」という事だ。何故なら意味が無いから。ただの喧嘩になっちゃうから。

2.3)で触れた「グロ画像」に関してだが、これを「気持ち悪いからやめろ!」と批難するのはとてもよくない。これはただの感情論だ。

もちろん感情論で語ってはいけないというルールはないし、ある物事にどんな感想を持とうと、それは個人の自由である事は言うまでも無い。

だが感情的な反応はお互いの相互理解を阻む最大の障壁ではないだろうか。

なんなら、予期せぬ方向から刺されかねない。
例えば「お前が好きなキャラ、おっぱいデカ過ぎてキモいから公共の場所にポスター貼んなや」みたいに。うるせえな、可愛いから良いんだよ。まぁ正直私も、駅の広告で半裸のイラスト貼るなよとは思うが。

閑話休題。なんだか言いたい事がぼやけているが、「自分の好き・嫌いを他人に強要してはいけない」という事だ。相手に何かして欲しい・変わって欲しいのなら、筋道立てて冷静に説得する事が肝要である。

当たり前のことだね。