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最近の結束バンドについて

私には悩みがあった。
伊地智虹夏と喜多郁代、どちらと結婚するかだ。

「あった」と過去形で書いている通り、私は既に答えを出している。

喜多ちゃんはぼっちちゃん(後藤ひとり)と結婚してもらい、私は虹夏ちゃんと結婚する。

おそらく最適解だろう。
たまに自分が、とんでもなくあたまのいい人間のように思える時がある。

完璧な真理に辿り着いた今、胸に燻るのは最近の結束バンドについてのことだ。

結束バンドは漫画「ぼっち・ざ・ろっく!」に登場する架空のバンドで、ありがたいことにアニメ化にあたり現実でもCDをリリース。放送終了後もシングルなどで曲を発表し続けている。

作詞の中心人物はひとりぼっちのギターヒーロー、後藤ひとり(主人公)で、たまにVo.Gu.を務める喜多郁代(主人公の内縁の妻)も担当している。
補足になるが、先述の伊地知虹夏(私の妻)はDr.兼バンドリーダーだ。
※Vo.Gu.=ボーカルギター、Dr.=ドラムス(ドラマー)

バンドのジャンルはオルタナティヴ・ロック(以下、オルタナ)だ。

Wikipediaでのジャンル表記はロック/下北沢ギターロックになっているが、無視しろあんなもん。
誰だって編集できんだから。

そもそもロックとは……という話は後ほど。

下北沢ギターロックに関してはロキノン系みたい括りの話だし、やっぱり無視しろあんなもん。

さてこの結束バンド、1stアルバム「結束バンド」の出来が恐ろしく良かった。
良かったのだが、それ以降は正直、明確に劣化している。

今回はそのことについて語りたいと思う。

1.音楽ジャンルと、私の好きな音楽について

結束バンドの話じゃねえのかよ、と思われるかもしれない。
しかしこれは避けて通れない話題だ。
ぐっと堪えて、最後まで読んで欲しい。

結束バンドはオルタナだと言ったが、オルタナとロックって何が違うの? とお思いの方も居るだろう。

ロック、即ちロックンロールの根底にある精神は「反抗」だ。
それは現状に対しての抵抗かもしれないし、体制に対してのアナーキズムかもしれないし、ごく個人的な事情に端を発するものかもしれない。
いずれにしても、反抗心がキモだ。
あるいはそれは、怒りにも似ている。

対してオルタナだが、これがまぁ分かりにくい。
私が初めてオルタナに触れたのは中学生の時分で、そこから10年近く「オルタナとは何か」が言語化出来なかった。

歴史的な背景としては、ロックの商業化(非常に重要な変化だ)に対するカウンターカルチャーとして発生している。
つまり、本当のロックはそんなんじゃねえ!という原点回帰運動だ。

ロックの商業化とは何かと言われると、これもまた難しいのだが、テンプレートという表現が近いだろう。

かつてバンドの主張を音楽として叫んでいたロック。
これが商業的な成功を収めたことで、「売れる音楽」と見なされた。
ギターを掻き鳴らし、不満らしきものを訴える、ロック風の音楽が量産されるのは、自然な流れとも言える。
そして、それは今も続いている。

愛だの恋だの、ひとりじゃないだの、光に手を伸ばすだの。
よくあるフレーズに、聞き覚えのあるサウンド。
覚えはないだろうか?

これが商業化されたロックだ。
熱も圧も感じない。
お前らがやってんの、ロックじゃなくてギターポップスだろ。

今や国内で本当のロックバンドと呼べるのは、サンボマスターだけだろう。

オルタナに話を戻そう。
精神的には原初のロックと同じだが、何が違うのか?

私は歌詞に最大の特徴を感じている。
すなわち、より比喩的・抽象的なフレーズだ。
こう書くと陳腐に見えるが、これが実に感性を揺さぶる。
ロックの精神を、全く関係のないぶつ切りのフレーズで表現しているのだ。

直接的な文章でないために、自由度が拡張されている ──受け手に解釈の余地がある── 歌詞は、一見すると意味不明だ。
だがオルタナは、その意味不明な歌詞を聴いた時、感情が刺激されるのだ。

怒り、郷愁、後悔……シンプルな感情はもちろん、それらが入り混じった、自分でも言語化出来ない感情が。

だからこそ、バンドそれぞれの色が出る。
だからこそ、そのバンドでなければ作れない曲が産まれる。

これが私の中での、ロックとオルタナの概要だ。
そして私が最も好きな音楽ジャンルはオルタナで、今でも最強のバンドはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANだ。
同率一位にthe pillowsがある。

専門家や業界人、あるいは一般人でも、先に述べた概要に「間違ってる」と思う人がいるかもしれない。
だが、音楽に絶対の定義はない。

アニメ「カウボーイビバップ」曰く、「どっかのブルースマンが、ブルースの定義を聞かれてこう言ったそうだ。“ブルースってのは、どうにもならない困り事を言うのさ”」。

ジャンルなんて、それぞれが定義すれば充分なのだ。

2.結束バンド1stアルバムについて

ここからはさらに個人的な感覚の話になる。
もう面倒なので、いちいち断りは入れないので悪しからず。

1stアルバムの完成度は本当に高かった。
これはオルタナとしても、キャラソンとしてもだ。

オルタナとして
まさしくオルタナをしていた。

曲に対する感想をいくつか述べるが、オルタナを言語化することは、正直あまりやりたくない。とはいえ、やっていこう。

劇中でも大きな存在感があった、「靴がキュッと鳴るとこ、いいよね……」でお馴染みの『ギターと孤独と蒼い惑星』は抽象的でありながら、周囲に馴染めない・ついていけない状況を描きつつ、決して迎合はしていない。
周りと違う自分に劣等感を抱きながらも、自分に出来ること・したいことを歌い上げ、自身の存在の主張と願いを叫んでいる。
オルタナだ……

いいぞぼっちちゃん!やったれ!イントロ勝手に始めちゃえ!!アベフトシみたいだぞ!!!でお馴染み、『あのバンド』はまさしくオルタナの面目躍如だろう。
メインストリームの音楽が肌に合わず、しかし自分が間違っているのでは? という自問自答。
だが誰かに答えを求めることはせず、自意識を強固にする。
あるいは自家中毒になっても。
もちろん音楽に対しての曲とも取れるし、当然、他に思い当たることがある人もいるだろう。
うんうん、オルタナだね……

『忘れてやらない』では青春爽やかロックをやっているようで、胸中に渦巻く不満や不審感を訴えている。
思春期ならではの空気感の中に、確かな足掻きが見て取れる。
それもまた、オルタナだね……

ロックバラードが特徴的な『フラッシュバッカー』は、思わぬ伏兵だった。
ラストナンバーとしてはかなり高得点だ(私は基本的にカバーに否定的なので、『転がる岩』は脳内でボーナストラックということにした)。
放課後のような、授業終わりのような、あるいは遠く過ぎ去った学生時代を振り返るような……。
きのこ帝国のにおいがした。
オルタナ度が一番高くて、いいね……

このように収録曲はしっかりとオルタナをしており、なおかつ、オルタナ愛好家以外にも好かれる仕上がりになっている。

キャラソンとして
古くは「らき☆すた」のキャラソンを全員分MDにブチ込んだ私としては、百点満点を出せる出来だった。

キャラソンは、当然ながらそのキャラのイメージをしっかりと封入出来ているかが重要だ。

「魔法少女リリカルなのは」の高町なのはのキャラソンが、銀杏BOYZやマキシマム ザ ホルモンみたいな曲だったらどう思う?
私なら陰陽師に相談する。

そういう意味で、1stアルバムは完璧だった。

ぼっちちゃんはバンドを結成した時に備えて、ここ数年の売れ線バンドの曲を抑えている。
さらにYouTubeでは再生数(というよりファンコメントか)を求めて人気バンドのカバー動画を多数アップしている。

これは本人の語り口からみても、彼女の本来の趣味でないことは確かだろう。
なんせ中学時代、お昼のリクエストソングでデスメタルを流す女だ。
SlipknotやMETALLICAならまだなんとかなったかもしれないのに……

青春ロックを書いて、リョウ(※)に「つまんない歌詞書かないで、自分の好きなように書いてよ」と背中を押された彼女が書いた歌詞として、ここまで納得感を得られるとは思わなかった。
※山田リョウ、結束バンドではベーシストを務める。

また、ぼっちちゃんらしくない曲は、ロックの世界に飛び込んだ(悪い事は言わない、やめとけ)喜多ちゃんが書いたと、自然に想像出来るのもポイントだ。

ただ『Distortion!!』に関してはちょっとな……と思う。
音楽用語詰め込んで韻を踏んでるだけでは……? という印象だ。

3.最新EP「Re:結束バンド」から見る問題点

では最近の曲はどうか。

最新リリースはEP(ミニアルバム的なヤツ)で、「Re:結束バンド」。
収録されている曲は直近の2シングルと書き下ろし2曲だ。

『秒針少女』に関しては、そこまで悪くはなかった。
この曲で〇〇少女というのは、個人的には些か眉を顰めるものがあったが。
※おそらくNUMBER GIRLの「透明少女」がタイトルの元ネタだろう。ロックバンドを題材にしている以上、そう考えるのは自然だ。

ただ、『秒針少女』にしても決して良くはない。

1stアルバムにあった「らしさ」、結束バンドの匂いは消え去った。
どの曲にしても、感じるのは商業・テンプレートの匂いだ。

なんとなくロックっぽい曲調。
なんとなくロックっぽい歌詞。

プロが作っているだけあって、音楽として破綻しているわけではない。
だがしかし、率直に言えば「60〜70点を取りに来たな」という印象だ。

60〜70点を目指して、狙い通り、近い点数は取っているとは思う。
反面、それ以上の点数は取れていないし、オルタナとしては落第だ。

このEPのどこに、ロックがあるのか。
このEPのどこに、オルタナがあるのか。
このEPのどこに、ハートがあるのか。

「それっぽい」パーツを集めて作った、のっぺらぼうの人形。
それがこのEPの収録曲ではないだろうか。

商業化されたロックは、テンプレートな存在だ。
それはつまり、その曲を作り・歌うのは、そのバンドでなくてもよいということでもある。

大衆受けはするかもしれない。
だが、色が見えない曲をリリースするバンドに価値はあるのだろうか。

少なくとも私にとっては無い。
そしてロックでもない。

当然、キャラソンとしても出来損ないである。

4.ぼっちちゃんの成長について、あるいはまとめ
結束バンドの方向性変更に関して、「ぼっちちゃんの人間的成長に伴って、自然に変わった」という感想を見た。

これは否である。

ぼっちちゃんは確かに青春コンプレックスを患っているが、彼女は別に「陽キャ」になりたい、普通のキラキラした女の子になりたいわけではない。

あくまでも陰キャでも輝ける場所を求めて音楽を選んだし、なんなら売れて中退することを目指している。
6巻でのスタンスは完全に不退転の博打打ちだ。
家族揃ってイカれてんのか。

ぼっちちゃんはバンドを通して自分を変えようとしているが、誰かになろうとしてはいない。
the pillowsの『New Animal』よろしく、今より良い自分になりたいのではないか。

ぼっちちゃんは物語の中で確かに成長しているが、決して「人として成長」して「明るくなった」わけではない。
彼女は「バンドマン」として成長しているのだ。
※ここで言う「人としての成長」は、多分に皮肉を込めていることを明記しておく。

つまり本質が変わったわけではない。
で、あるならば。やはりこれはクリエイター側の問題だろう。

まさしくオルタナが産まれざるを得なかった、ロックの商業化、その再現を見ている気分になるのは、私だけではないはずだ。

結束バンドの原点回帰を、祈ってやまない。