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オファー受け入れ決断の決め手 下〜いわゆる「50歳は現役の折り返し地点」がキタ(52歳の田舎のおばさん留学記8)

(写真は、留学前まで自宅敷地内の”小屋”でやっていた”中3専門塾”の様子。)

アメリカの大学で学ぶチャンスがあなたのものに!
というキラキラ光る通知がやってきて、濃いモヤの向こうの光がオイデオイデと、私を手招きしていた。
同時に、様々な取るに足らないような小さな状況の変化が、束になって私を上に押し上げてもいた。

このシリーズでは、「52歳で、日本の田舎に住んでて、主に子育てと介護で”表舞台”からは隔絶されていたおばさんが、突然単身アメリカ留学すると何が起こるか?(ちなみに途中脱落帰国。2017年のこと)」ということを、英語学習面ではなく(それも少しは書くけれど)、生活面の視点からちょっと紹介します。誰かに何か参考になるかもしれないなー、というのと、ようやく振り返る気持ちになってきたので、自分のまとめを兼ねて書いています。思い出し思い出し書くので、たまーにという感覚で、ながーい期間をかけて、書こうと思っております。時系列も前後するかもしれません。


塾を止めることは、今回の奨学プログラムを見つけるより前に決めていた。

10年運営していた塾(ほぼ40代を共にした)は、何もかもが古くなって、更新が必要だった。
ベコベコし始めた建物の床。壊れてきたコピー機。黄ばんできた自作の教材。色々といっぺんにガタが来て、「あー、もう一度、全面的に仕切り直さないといけないなー(めんどい)」となっていた。
それから更新が必要だったのは、私の頭の中もだった。

いろんな情報を手に入れて、知識や受験制度のブラッシュアップをしてはいたけれど、たまに自分の「学生時代」の学びのシーンが頭の中にひょっこり顔を出し、それをしゃべっている時もあって、中身は間違っていないんだけど、そのことに自分で驚愕していた。これから先、こんな古い記憶の知識を使って「教える」ことをしていくのが、嫌だった。これからの未来を作る人に対して、いくらなんでもこの「記憶」はないだろう?何十年前だよ!そして、その記憶はこれからもどんどん古いものになっていくのだ。そんな古い記憶の”アップデート”したものではなく、今の空気から得るもので、教育に携わりたいと思っていた。

やめたら、新しい形の「塾」のようなものをやってみようかな、と考えていた。

具体的には、一緒に勉強法を考える「町医者」のような塾を考えていた(今それに近いことをやっているんだけど)。それを実現するためには、不器用な私には塾の運営と並行は無理で、一旦閉めよう、と思っていた。
塾を閉めたら、おぼろげなイメージのみの構想を、どうしていったら良いか、しっかり考えたり、何かしら小さいトライをしたりしてみようと思っていた。

「今の教育」を直接受けられるチャンスが、「留学」だった。

語学留学ではなく、大学で学べるということが、私の中でものすごく大きかった。フルで学位を取る必要はない。でも、大学という学制の一部、しかも日本じゃない、というのは、「今の空気を得る」のに最適な気がしていた。

「夜の仕事」ももうやめたかった。5教科教えるのも辛くなってきた。

学習塾は夜に開かれる。それは、介護の都合上ちょうど良かった。昼は私がじいちゃんばあちゃんの面倒を見て、夜、私が塾で働いている時は、夫が見ることができた。夫が単身赴任を始めたときは、塾の規模も縮小していたが、何かと都合が良かった。
でも、だんだん、夜の仕事が疲れるようになってきた。夜に全力を出すために、昼はあまり疲れることはやれない。夜にピークを持ってくるのが、だんだん辛くなってきていた。
一人で5教科全てに対応していたのだが、以前のように頭がくるくる回転できなくなってきた。たとえば、塾を自習室として開放していたのだが、そのときは、5教科の全範囲の質問がどんどん飛んでくる。頭の中がくるくる回転して、何にでも対応でき、適切な教材を示せ、今後の取り組み方まで支持できる自分は、そこそこ「エライ」と思っていた。が、塾を閉める直前あたりは、だんだんそれがしんどくなってきた。頭の回転が鈍くなって、以前のように、ベストな知識と思考が併用できなくなってきた。これを人に言うと「できる方が異常」と言ってもらえたが、自分の中では、できたことができなくなっている状態で塾を続けるのは、辛かった。

塾生に語る言葉が、そのまま自分にも刺さりまくっていた。

個人塾だったので、生徒と語り合うことも多かった。励ますシーンも多かった。
なかなかいいことも言っていたかもしれない。
でも、自分の言っていたことは、そのまま「じゃぁ、お前は、どうなんだよ!」とそのまま自分に返ってきていた。
14、5歳に必要な言葉と、アラフィフに必要な言葉は違うに決まっている。
14、5歳が受け止める言葉を、まともに食らう必要はない。
でも、「お前は、自分に誠実に生きているか」「不確実性の時代を切り拓いているか」と思うと、「語った」後、落ち込んだ。
自分は、塾の生徒に見せられる背中を持っているか? と自問自答することがどんどん増えていた。

ライフステージの転換期も、また、きていた。

留学自体は、介護していた義父が特別養護老人ホーム(住民票も移すタイプの養護施設。基本的に終のすみかになる)に入ってしばらくしてから考え始め、TOEFLの勉強をちょろちょろ始めたり、留学エージェンシーに話を聞いたりしていた。
その義父が1年くらいして他界し、そのころ、息子も大学進学で家を出て、単身赴任の夫も戻ってきた。嫁や母の「責任」みたいなものが無くなって、留学を現実にしてもいいのかもしれないと思い始め、そこで初めて、奨学制度を調べて、この制度を見つけた。

つまり、この頃、自分の人生も、いきなり転換期に来ていた。嫁と母の肩書が取れるのは、身軽になるのと同時に、それが一気に来たものだから、若干、身の置き所がなかった。
リスタートをどう切るのか、戸惑いの中にいた。

英語に対する引け目も感じていた。

塾で教えている最中に、「私は英語圏で暮らしたことがないのに、英語を教えている」ということに、とても引け目に感じていた。自分の教え方は、多分それほど悪くなかった。多くの教え子が英語力を最大の武器にして、高校受験のみならず、高校生活、大学受験まで、勝負できる人になっていた。それでも、多くの”若い人”が留学をした上で教員になっている現在の世の中で、これから先も太刀打ちできるとはとても思えなかった。

教育心理学への興味関心も、強かった。

頭から離れない「ディスレクシア」と、(専門用語を覚えた今だから言える→)情報の認知処理方法の違いを、もっとアカデミックに知りたかった。自分の取り組んできたことに、アカデミックな裏付けが欲しかった。
それを真剣に追求すれば、英文の文献も読まなければならなくなるだろう。その域に到達できるかはわからないけれど、そういった「教育心理学」を英語で学ぶ体験をすれば、その壁はずいぶん低くなるに違いない(あくまで勝手な予想)。

自分は何歳まで働くか? 

何歳まで自分は働く? 75歳まで?
ざっくり、25歳から75歳まで働くなら、50歳はちょうど中間地点だ。
25歳から50歳までで体験できたこと、到達できたことを、もう一度繰り返せる。というのは、あくまで単純計算で、能力や体力や社会的な色々で、そうはいかないのは分かっているけど、計算上はそうなる。スタートを切り直すなら、今しかないんじゃないか?(実際は、45〜50歳のうちに切り直した方がいいと思うけど!)

ひとつひとつのことには、全部「いや、そうではないんじゃない?」という反論も、自分でできた。

でも、それが束になってかかってきた。
それぞれの「悩み」の「小人」は、好き勝手な方を向いて、互いに関係ないようにそっぽを向き合っていたのに、そしてそれぞれが、やいのやいのと私に考えることを迫っていたのに、
「留学できるんじゃ?」
という可能性が現れた途端、
「ソレイイネ! ソレデ解決デキルンチャウ?! 行ッチャエ、ヨイショー!!」
と束になって、私を押し上げた。

何も答えは出ていなかった。
留学さえすれば、解決できるなんて自分でも思っていなかった。
あちこち「限界」「辛い」と感じている私が、留学に対応できるのか?
限りなく不安ではある。
でも、これらに束になって「留学推し」をされると、思考停止のまま
「行っちゃいましょうかね。それしかないっすよね?」と呟くしかないような気がした。

こうして、
「留学する」と宣言して
「へえ!どうして?」と他人に聞かれると、
うまく答えられない私が出来上がった。

モヤの向こうの光と、答えの出ない小さい「悩み」の束は、明確な答えなどくれないのだった。

教訓


教訓17;アラフィフは、現役中間地点。もう一回25年をできる。(でももう少し早めな中間地点設定がおすすめ!😢)
教訓18;未来が見えないのは、52歳も同じ。同時に、52歳は、過去が導く「答えの出ない悩み」が留学を指し示しちゃったりもする。
(キケン)

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