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勝手にアンテナが立ちすぎるんだから、仕方ない

情報をとりにいくことを、「アンテナを立てる」という。
それは時々「アンテナを高く持ちましょう」と促されるものでもあるけれど、
勝手にアンテナが立っちゃって、勝手に情報とりまくってしまう人というのはいる(→自分)。情報が自分のものになるかというと、それほどなっていないんだけど、アンテナは感知しまくってしまう。

新しくとった情報というのは、大概「なるほどねー!」というものだ。
「確かにそれもある」「視点を変えるとそうくるか」というような、自分が既に持っていた知識や経験に付加価値や別視点を与えるものから、「え、そんなことできるの」「そりゃいいね!」「それはまずいよね」という新しい知識や情報まで。

その情報には、さらに様々な別の情報がくっついてくる。
それを発信している人の属性や、状況、そしてどんなメディアを通しているか、とか、それを取り巻く人々、過去や現在・将来性などの時間的なもの、など。
それらの別の情報にも、「なるほどねぇ」となる。
(この「別の情報」のくっつき度合いが、ちょっと人より多い気がする。)

この、「なるほどね」には、自分の知識だけでなく、感情を掻き回す作用もある。
その情報に自分はいかに対峙するか、自分の基本姿勢は?、どこまで深掘りするか、どこまでシェアするか、それより今のこの乱れた感情をいかにするか・・・エトセトラエトセトラ

知識の組み立て直しや付け加えだけでなく、感情の持ち方も整理していかなきゃならない。

つまり、アンテナが、勝手に立ちまくる人というのは、
多くの情報を、(無意識に)「新しい」と認識してとってきて、
その情報にくっついている情報も、(無意識に)認識してとってきて、
その情報から再整理されている知識や感情を、(無意識に)メタ認知して、整理して・・・
と、やっている。

私の場合は、そんなとき、頭と心の中に、(無意識に)ゴオッと、砂嵐が起こったみたいになる。
頭の中がクワンクワンとなって、自分を客観視できないくらいになる。

すごく
疲れるのである。

世の中では、そういうのを「繊細さん」とか「HSP(ハイ・センシティブ・パーソン)」とか言うのだろう。
そういう呼び方もいいけど、わたしは自分のことは「アンテナさん」と呼ぼうかな、と思う。なんか、その方が自分をコントロールしやすそうに思うから

今日の記事で、見出し画像を、「アンテナがいっぱい立っている様子」にしようとして、いろいろ比べてみて、ハリネズミのイメージのイラストが一番近いかな、と思って選んだのだが(最近知ったCanvaから)、
私は、このハリネズミよろしく、アンテナがたくさん立つ毎日が続くと、疲れが背中にくる
「背病み」である。

ここしばらく、
新しいこと、新しい見方、付随すること
が、ちょっと多すぎて、アンテナビンビンだったので、背中が疲れてぐったりだった。
そういう時は、休むにかぎる。
緊張した背中をほぐすために、お風呂や温泉も良い、気がする。
でも、一番は、嵐が収まってその向こうの景色がゆっくり眺められるように、アンテナを倒し、新しい情報を入れずに、じーっとしているのが良い。できればSNSも休んで(情報がやってくるから)、ぼんやりする時間を増やす、といいようにも思う。

私は東京生まれの、東京のベッドタウン育ちなのだけど、
今住んでいる田舎が性に合ってるな〜、と思うのは、
情報を遮断して、ぼんやりできる風景と風土があるからかもしれないな。

こういうことをわかるようになったのは、ここ1、2年のことだ。
以前は、人よりたくさんアンテナが立っているのだ、ということに気づかず、
「疲れやすい」としか思ってなかった。
「背中が痛い」としか感じてなかった。
丈夫な心と体になろう、なろう、と苦心していた。
でも、
アンテナ立ちすぎなんだな、
と、自覚するようになってから、少しは自己コントロールができるようになったと思う。
仕方ないよ。意思と関係なくアンテナ立っちゃうんだから。
立ったら立ったで、そんなアンテナハリネズミな自分を
上手になだめて、付き合っていけばいいと思えるようになってきた。

ということを、プロフィールに付け加えておこう・・・。





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