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"英国護持"と"皇国護持"の距離/上田又次『エドモンド・バーク研究』

 同時代に起きたフランス革命を批判する論陣を張った英国の政治家・思想家エドマンド・バークは、「保守主義の父」と称され、日本では明治時代に受容された。明治には自由民権運動家に「バークを殺す」(植木枝盛「勃爾咢(ボルク)ヲ殺ス」)という論文を書かれたりもするが、本書はバークを「殺す」のではなく、「復活させる」意図で書かれた。

 東大西洋史学科出身の著者・上田又次の歴史観・革命観は、本書に序文を寄せた国史学者・平泉澄の影響を大きく受けている。平泉は日本史上の「忠臣」「先哲」の精神を現代日本人に「復活」させることに心血を注ぎ、「皇国護持」に尽力したことで知られる人物である。彼によると「革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する。中興により、維新により、国家の歴史は絶えず生き生きと復活する」(『国史学の骨髄』昭和7年、至文堂。13頁)。上田は緒論で平泉と同じような歴史観・革命観を披瀝し、英国におけるバークをこの論理の中に位置づける。

 上田によると、日本における「肇国の精神」(天照大神の神勅に現れているという)に相当するものが英国ではマグナ・カルタの精神であり、名誉革命は「Magna Chartaの復活」であり、明治維新に相当するという。バークこそは、その精神を受け継いでフランス革命と戦い「英国史護持」を成し遂げた偉人であった。
(マグナ・カルタは1215年にイングランドの貴族がジョン王に対して、貴族や都市の権利・自由を守り、重要事項の決定には議会を招集するように求めた大憲章。1688~89年の名誉革命は英国の国制とそれに基づく自由を侵害したとして議会がジェームズ2世を放逐し、ウィリアム3世とメアリ2世を王に迎え入れた事件。なお上田は名誉革命を名は革命であれ、歴史の断絶を意味する「革命」とは別物と見なす)

 そのような前提に立ったうえで、著者は本論でバークの生涯を辿り、その政治思想と歴史的意義とを考察する(バークの生涯を辿る上で、著者は彼の生涯を5つの時期に区分するが、これもまた、歴史の時代区分と歴史的個人の生涯の時期区分を重視する平泉澄の影響を受けたものであるとみてよい)。
 バークは英国の歴史の中で育まれた「自由」と国制=英国憲法の伝統を尊重し、その精神に基づいて、歴史から遊離した抽象的な「自由」から新たな国家を人為的に作ろうとするフランス革命を徹底的に批判した。それに対する著者の態度が同情的・好意的であることは言うまでもない。一方で、著者は祖国日本の「不滅の国体」を信奉する人物である。「英国は吾人と国体を異にし、本質的価値を異にする」(185頁)ことを認めつつ、それゆえにこそ、日本人として批判的な視座を持つ必要性も語る。

その独特の国体に基ける英国史に生きたる人物として称賛の辞を如何に加へるも過ぎたるを見ないであらう、然し、厳密に、吾々日本人をして其の局に立たしめて考察する時、その政治生活は批判されるべき幾多の点を蔵する。

187頁

 たいていは注釈の中でだが、著者は英国の国体やバークの態度への疑義も呈している。それを2例ほど挙げてみよう。

 彼はマグナ・カルタについて「その締結の方法、思想に於いて吾人と全く相容れざるものなるは之亦言を俟たざるところである。(中略)その建国が征服に依るが故に、かかるものをその根本とする亦已むを得ない」と述べる(4頁)。「建国が征服に依る」とは、ウィリアム1世がフランス北部からイングランドを征服することで、英国王室の祖となったことを指すのであろう。マグナ・カルタは君臣の潜在的対立を前提に、臣下が君主に要求を突き付けたものである。「その締結の方法、思想に於いて吾人と全く相容れざる」というのは、臣下が恫喝まがいに君主に要求を突き付けるなどということは、天照大神の「我が子孫は永久に日本を統治せよ」との神勅を「肇国の精神」とする日本の「吾人」からするとあり得ない、という意味であると見てよい。

 また、著者は、バークがアメリカ独立戦争に際して、英国人の「自由」の観点からアメリカ側の主張に理解を示したことを「熱烈なる正義感」と賞賛しつつも、アメリカ人が英国王に弓引いてからもなお彼らを容認したことには「名分上亦赦すべからざるものにはあらざるか」と疑問を呈する(66頁)。「アメリカ独立革命」はフランス革命の「前駆たる革命」であるという見解に同意する著者からすれば、バークの態度は革命批判者としては不徹底に映ったのである。

 著者はバークを「歴史と伝統に生きて、祖国を護持する」点で「永世すべき人物であり、現代英国人が、そして又吾々までが彼を復活せざるべからざるが如き人物である」(186頁)としつつ、彼の革命批判は不徹底であると見なし、フランス革命に「真の批判」をなしうるのは「不滅の国体を護持して居る日本人」のみであると主張する(187~188頁)。異邦人の「先哲」バーク研究は、「英国護持」と「皇国護持」の距離を彼自身に改めて実感させることになったのである。

 著者は後に満洲の建国大学助教授になるが、陸軍に招集されて沖縄戦で戦死する。フランス革命への「真の批判」を深める志は道半ばで終わった。

【紹介した本】
上田又次『エドモンド・バーク研究』昭和12年、至文堂。


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