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デス・レター(ライブペインティングについて)

友人であり画家のなかがわ寛奈が発したツイートがちょっとした論議になったようである。どうやら彼女は、吉祥寺のライブハウスでのライブペインティングに参加した時、何かを感じたようで、音楽と絵の「融合」を、自分の力量ではでききれず、また、絵のみに専念したいという気分も伴って「ライブペインティングはやりません」となったようだ。これはこれで、うむ残念だが確と承ったで済むことだが、俺が驚いたのは事象そのものではない。なかがわが「音楽と絵を融合」させたがっていたことである。

融合するのは、観客の側ではないのか?観客の精神の自由ではないのか。

この「精神の自由」という文言はまんま、受け売りである。福田恒存は1950年に出した「藝術とはなにか」の中で、こう言う。長くなるが、以下記する。

「芸術の母胎は演劇の中にある。演劇においては本来、演者=テーマの提起者兼回答者であり、観客はテーマについて問いを発する人である。劇場で観客は、主体的に精神の自由を発揮して演者に働きかける。(そんな場であるべきだ)
すなわち演劇は「為されるもの」であり、絵画、映画など、物語も結末も、作家が用意するいわゆる「タブロー=見られるもの」と対立するものである。」

「しかして近代以降の演劇は、あるべき「観客の精神の自由」を許さないものになっている。演者は日常のリアリティを追求し、従い観客はそれに演者の迫真性を見るはめになり、結果、共感する事にのみ誠心し、自身の言動の正当性を追認し、自己肯定感に浸るようになってしまった」

ここではなかがわの言うように、演劇と絵画は対立概念としてある。だが、と俺は思う。絵画に結末など、あるだろうか。あるとすれば、それは誰が決めるのか。

(余談だが、俺たちの音楽の余韻を無理やりぶった斬ったクソDJに激怒したことがある。その顛末は以前、書いた。理由は論を俟たないが、あのバカにわかるよう書いてやろう。それは、奴が、音楽を聴いて主体的に精神の自由を発動することを放棄し、「はい終わり」と言ったからだ。)

俺の嫌いなバンドは、ライブハウスを自分の曲の発表会としてみている奴らだ。彼らの音楽に、俺は何を聞けばいいというのだ?俺の好きなアーティストたち、ジョズエ、gloptin, Thee BlackDoor Blues, ティートエイチ…みんな曲の終わりを観客に放り投げているではないか。彼らは、俺たちは、観客の問いを待っているんだぜ。

俺たちロックは、「タブロー」である。なかがわの絵と同じ「タブロー」である。だが、なかがわの絵の続きを決めるのは、俺たちのロックの続きを紡ぐのは、観客だ。それを喚起できないなら、俺たち演者が悪い。

同様に「絵と音楽の融合」をするのは、観客だ。それを演者が考えるのは、観客から「精神の自由」を奪うことになるのではないか?なかがわのツイートはこのように、示唆的である。


新松戸ファイアーバードというライブハウスで、当時店長だった上鈴木大吾が発案した「Art & Music 」という好企画があった。出演全アーティストに画家がペアになる形で、ライブペインティングを全編やる企画である。これの精神を引き継ぐ形で、8月17日にMade In A Garage第6弾として、これをやる。ニシモトヒサオという画家が、全編絵を担当する。

当然だが、俺たちは、「音楽と絵の融合」なぞ目指さない。但し、福田恒存の言うように、テーゼの提起だけは、する。それは「音楽の化身」である。俺はこれを、画家にこそ見てほしい。音楽は誰のものか、絵画は誰のものか、そして、ライブハウスは、誰のものか。

その答えが「その時ライブハウスにいたすべての人のもの」であった時、音楽と絵は「融合している」と、俺は思う。

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