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デス・レター:3rdアルバム制作日誌

忘備録である。読みたければどうぞ。

制作に入った。なんとなくだが「おみやげ」をテーマにコンセプトアルバムを作りたい。なぜ「おみやげ」なのかはわからない。ただなんとなく頭に浮かんだ、面白そうな語句を基準に物事を進める。いつもそうやってきた。なぁに、そのうちあらすじもディテイルも見えてくるさ。歌なんて、そこらへんに落ちている。俺はただ、それらを拾って磨くだけである。

だが、これだけはやってはいけないということは、ある。それは、曲を詰め合わせただけのアルバム作りだ。「新曲できました!」「新曲ライブで披露します!」の欠点は、そうやってできた曲が自閉的になることである。曲のストーリーを曲自らが収めるというか。そこには、余韻というものがない。アーティストは曲を客に提供する→客はそれを受け取る。これだけの関係は、単なる宅急便に過ぎない。それはヘタをすると、エンタテインメントになってしまう。俺はエンタテインメントを、企図してやるものと考えていない。それは現象であるべきだ。

余談ではある。近年の欧米のアーティストのほとんどが、自分のアルバムを、エンタテインメントを企図して作っている。遡ること25年、リンキンパークがその嚆矢であり代表例であった。その彼らが、名プロデューサー、リックルービンにかかわった途端、つまらなくなった。なぜか。それはルービンが、アルバムに余韻を求めたから、と俺は見ている。ルービンが関わる前の、numbやfaintなどの曲には、全く余韻がない。即ちリスナーが曲に没入し、曲の終わりを受けてリスナー個人の物語を紡ぐ契機が全くない。代わりに、曲が続く間の熱狂だけがある。ルービンが関わったアルバムから聞こえてくるのは、重苦しいような、変にセンスのいいような、どっちつかずのリンキンパークである。

それで今は、いいのかもしれない。だが、そのおかげで、日本のリスナーは甘やかされてしまったし、市井の大人たちは、ライブハウスから遠のいてしまった。俺たちの主催するmade in a garageが、イベント出演者の組み合わせを最も重視するのもこういうわけである。

ルービンの1番の大仕事は、無論レッチリであるが、scar  tissueの余韻を見よ。あるいはJohnny cashのhurtを見よ。俺が最近推す、the dead southや dirty projectorsにはちゃんとある。無論、led zeppelinにも、ある。俺たちのこのアルバムにも、余韻がありたい。というわけで、第一回目の録音は、曲が終わった瞬間から始まる余韻に最も気を遣った曲になった。目論見は成功したように思える。アルバムの最後の曲。数ヶ月をかけて作るつもりだ。エンジニア兼アドバイザーは、お馴染みのカフェオレーベル原さん。信頼できる人物との共同作業は、楽しいことこの上ない。おまけに制作が速い!この曲は、100分程で書き出しまでできた。


休憩時間、原さんと時々駄話をする。今回は、あるアーティストは酷い、つまらん、全くエモくないという話で盛り上がった。互いに「そうだそうだ」と頷きあったあと、俺が「いやーこの話は大っぴらには言えませんねぇ」と言ったら彼がぼそっと「いや言ってもいいんじゃないですか?」と言った。彼は信頼できる。できるけれど、この件だけはまだ、俺にはちょっと、ちょーっと、自信がない。それは2人いる。誰かは言えぬが、大家である。

上手くできたご褒美に、最寄りのサイゼリヤでペペロンチーニを食べた。鷹の爪が(輪切りだが)入っていた。サイゼリヤは日々、企業努力をしている。そんな彼らに敬意を表して、そこらにあったグランモラビア(粉チーズ)とオリーブオイルで、皿の端に湖を作り、巻き上げたパスタをディップしながら食べた。フォークに巻き上げたパスタ。周りを覆う白ーいチーズ。滴るオリーブオイル。フリッターのような形状。余韻とは、この食後のタバコである。

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