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デス・レター(誤解があったらアカンのか⁈)



このコラムは大体、ツイッターの記事で俺と関係ある話題について、「俺はこうしてるぜ」とまあ、半ば忘備録のようなもんなんだが、次のようなことも、俺には音楽的にには関係あるのだよ。

昨日今日の記事でこんなのがあった。曰く「琴線に触れる」を怒る時に使う奴がいる。「逆鱗に触れる」の意味がわからん。だから「グッとくる」「激おこ」でいいじゃん。難しい言葉使うのやめようよ。

やだね。そんなんバカのすることじゃん。これが俺のスタンスだ。琴線も逆鱗も知らなかったことは仕方がない。そういう単語がある以上、自らをちょっと恥じて、然るのち調べて身につければよい。ではなぜちょっと恥じるべきかと言えば、無知はバカだからだ。バカの要素はいろいろあるが、周りの人が知っていることを自分は知らない時が「バカの入り口」ではあろう。かくいう俺も、しょっちゅうこの目に遭っては「スマセン…」と言っている。こういう時は恥じるべきである。これの典型が、中学生が大人に諭されるときであろう。未熟とバカは、相似である。

この提言者はだから、「みんなバカでいいじゃん!」と、多分真面目に言っているのだ。System Of A Downの「はーいみんなバカです!」(空耳アワー参照のこと)じゃないんだから。好きなくとも俺はこれまで、バカにだけはなるまいと思って生きてきた。俺は「グッときて激おこ」で事足りる世界で生きたくない。

さて、これに反応した、ツイッター上の知り合いがいた。彼もまたこの発言に一旦は反発したが、その後「難しい言葉は誤解を生む可能性が大きいからやっぱりやめた方がいいのかなぁ…」と迷いの発言をした。(その後彼は「誤解を招くのはしょうがない」、とした)

先の提言をしたバカも、それに反応したこの方も、誤解をネガティヴなものと捉えている。そして俺はこのことにこそ異を唱えてみたい。誤解があったら、アカンのか⁈と。

人間は、わかってほしい生き物だ。だから言葉遣いに厳密を期すのだが、それでも言葉と自分の真の思いの間には、微妙に乖離があるものなのである。まして俺は、他人の感情思考行動をコントロールすることはできない。俺の言動を他人がどう受け取ろうと勝手だ。であるから、誤解は起こる。するとすかさず俺は、「なぜこの人は俺の言動を違うふうにとったのだろう」と思うか、「ははーん、そうとるか!」と思うかどちらかしかない。どちらにしてもそれは、新たな話題、自らの気づきの始まりである。いいことではないか、学ぶ気持ちさえあれば。即ち先の、「難しい言葉使うのやめようよ」の人は、学ぶ気がない。周りがそう言っているから俺もそう言う、的な、同調圧力、的な、まあ…バカだ。

誤解をネガティヴに捉えるのは、自分の意見を、自分が考えていた通りにとってもらいたいからだ。それは、べき論であり、ちょっとゴーマンなのでは?ということだ。であるから、俺たちの音楽は、どうとってもらっても構わない、という、「歌に気持ちを込める(乗せる)か」という、八代亜紀論に、突如逢着するのだった。

このコラムのバックナンバーで俺は、鍵子と加藤伎乃について触れた。どちらも昭和歌謡を下敷きにした艶やかな歌声だが、昭和ならぬ令和の今、彼女らはきっと、自分たちの真意と違う捉えられ方をしている。それで一向に構わないし、むしろ芸域の拡がりにつながって、よい。だからこそ、ほんの少数の者が、彼女らの真意を突いた時、鍵子は、加藤は、「私の歌は誰かには確実に伝わっている」と実感するのだろう。誤解の海を泳ぐ事も、その大会に一粒の真珠を見つける事も、どちらも楽しいことではないだろうか。


さて前述の「難しい言葉使うのやめようよ」のバカだが、記事の最後に吐き捨てるように
厨ニ病か?
と書いている。
さて、今仮に、俺が「厨ニ病ってなんですか?分かりませーん」と言ったらこいつはどうするのだろうか?「難しい言葉使うのやめ」たはずじゃなかったのか?もし俺に「あのね厨ニ病ってーのはね…」と言おうものなら、こいつは、自分の提言に矛盾する行動を取ることになる。こいつにとって当たり前の厨ニ病が、俺にとっては当たり前でない。つまり、難しいか簡単かはそれこそ「あなたの感想でしょ?」なのである。このことさえ、こいつはわかっていない。自分の知っている世界だけが真である、と思っている。バカであり、傲岸でもある(「傲岸」知ってるかな?)

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