民主主義は限界に来ているのか?ーコロナショックから得るべき教訓ー


強まる政府の権限

時は戦時である。そして、戦時で何が起こるかというと権力の集中である。物資を効率よく移動させるため、人員を強制的に動員させるために、政府はそのような権力を使い、平時においては保証されている権利や自由を著しく制限する。

コロナ感染が拡大して行く中で、政府が行使できる権限があらゆる国で強まっている。例えば、中国では1000万人規模の都市、武漢を中国当局が封鎖したことが話題になった。また、ロシアは2月1日までには中国人の渡航を全面禁止する措置を取り、世界規模な感染拡大が進む前に動く、という西洋の国々では真似できないようなスピード感を発揮している。

この二つの国に共通していることは権威主義であるということである。独裁とは少し違う。独裁は民意に基づかずに政治が行われる場合がほとんどだが、権威主義は多少なりとも民意が反映されるシステムが整っている。ロシアのプーチン大統領は、選挙不正が指摘されているが、選挙というプロセスを得て大統領になった人物であり、第三者機関が行った世論調査では常に国民から60%以上の支持率を任期中を通して得ている。また、ロシア憲法の性質上、大統領に他国と比べ多大な権力を与えているため、プーチンが独裁的に見えるのは仕方のない部分である。

また、習近平の場合、彼は熾烈な競争を勝ち抜いて国家主席の座に辿り付いた。国家主席になるためには党員が約9000万人(自民党はちなみに100万人)にいる中国共産党の中での出世競争に勝ちあがるか、又は一国の面積や人口に匹敵する省で知事をやって実力を示すかの
いずれかである。習近平はいずれの条件も満たしている。中露共々、国民全体の民意が反映されていない政治体制が取られているようにみるが、実力が備わってないとリーダになることができないし、ミスを犯したら最悪の場合圧迫されている層が革命なるものを起こすかもしれないため、権力をもらっても好き放題できるわけではない。

この二つの国で起こっている成功体験を目の当たりにして、私たち自由民主主義諸国に住んでいる人々は疑問に感じている。なぜなら私たちの政治システムは機能してないかのごとく思えるからだ。純粋な民主主義は時々不都合な場面に場面に遭遇する。民意を反映しようと思っても、多種多様な意見を持っている人々がいるため中々物事が決まらない。また、議論を重んじるため仮に何かを決める時になっても時間が延々とかかるため決まるものも決まらない。そのことが原因なのか、多くの民主主義諸国はコロナ拡大を防ぐ初動の遅れが目立っており、イタリアで見られるように国民のパニックが由来して医療崩壊を起こしている国もある。また、権利や自由を制御することに対して政治家や国民は抵抗があるためロックダウンが不徹底に終わっているところが大半である。

そんな状況で生きていると、権威主義的な体制が魅力的に映るかもしれない。何も決まらず、中途半端な体制よりかは、自分たちが何も考えていなくても一部の、しかも優秀なエリートたちがすぐに問題を解決してくれる方がいいのではないか。だからこそ、常日頃から権力者に多大な権限を与えて、コロナ拡大のような被害を未然に防ぐ方がいいのでは?という人が増えてるのではないかと肌感覚で感じている自分がいる。

私たちがなぜ失敗したかと思っているか


しかし、今回の騒動で議論をするべきなのは権力を集中させるか否かではなく、私たちがなぜ失敗したかと思っているかである。

私たちは各国政府の対応を品定めして、あれが良かったこれが良かったと批判する。しかし肝心な点、このような大規模な被害な世界中にもたらした感染症の対策は歴上見ても誰も遭遇したことがないという点を見落としている。それゆえ、今はどの国も手探りでいろいろ試している段階であり、誰が正しかったのは半年後になるかもしれないし、何年後になるかも分からない。


我々が本当にしなければいけないことはなんで政府の対応が遅かったのかではない、どうして遅い政府を私たち自身が選んでしまったことである。仕事や学校などで多忙な毎日を送っているせいか、私たちは自分たちが国の命運を決める、主権者として自覚が薄れていると感じる。災害やパンデミック、最悪のケースが起こった場合にしっかりと仕事をしてくれる人を私たちは選んでるのか?選んだかもしれないし、選んでないのかもしれない。上記で述べたように、それは後々になって分かる場合もあるし、経済の低迷によって現に政府の失政によって苦しんでいる人たちはいる。特にコロナショックにおける日本の場合を見ていると、日本国民に非があることは明白であると思う。

日本は世界において緊急時における政府の権力が一番弱い国である。(内戦中の国を除いては)なぜなら、その権力を強めるための法律がないし、国民がその法律を通させるようにに仕向けなかったからである。大体の国では、政府が強制的に国民を家からださせないようにして、無断で家を出る人には罰則を掛けるようにしている。政策の是非はともかくこの政策は国民に一定の安心感を与える。しかし、日本はでは緊急事態制限がでても政府が要請しか出来ない程度の権力しか行使できない。また、要請をするのなら、そのせいで被害を被る企業などに支援を施すが筋であるが、アメリカや欧州と比べると、財政出動の額は少ない。とりあえず、中途半端な感が否めない。しかし、これを許したのは私たちの責任である。40%の人しか選挙に行かないという国で大多数の人が首をかしげるような政策を政府が打ち出すのはそのためである。

しかし、だからといって、それは政府の権限を常日頃から強めろという話ではない。容易に権力の拡大を謳う人々は自由がない、権利が制限されるという状況を短絡的に見ているのではないかと感じる。権力者側の視点に立つと、国民を常日頃から制限できることほど楽なことではない。いざという時に責任を取らなくてもいいように厳しい法律を施行する。また、そんな国に限って表現の自由などない。ロシア、中国共々、政権に対する批判は特に命がけで行わなければならない。ロシアでは反プーチンを首謀する人々が次々と謎の死を遂げたり、選挙に出ることをブロックされたりしている。中国の場合はもっとひどくネットに共産党の悪口を書いたら社会保障が受けられなくなる可能性がある。平時でこれである。コロナショックという戦時においてはさらに厳しい言論統制がされていることは容易に想像できよう。そのため、権力がある特定の個人又は党に権力が集まればいいという前提は間違っていると考える。

私たちは今回のコロナショックから間違った教訓を得てはならない。教訓として受け継ぐべきことは、私たちが戦時に本領発揮する人々を選ぶかでどうかである。政府に戦時にどの程度の権限を与えるべきかということである。そして、現政権がそれに当てはまっていたかどうかは次の選挙までには分かると思うし、私たちが政府がコロナショックの対応に失敗したのだと思えば権力の座から引きずりおろせばいい話である。
権威主義が正しいか、民主主義正しいかはまだ分からない。しかし、権威主義の国の政策でまねできるものがあれば、戦時における模範として採用すればいい話であり、平時までに持ち込まなくて良いものではない。しかし、その判断をしようと思っても、国民が問題意識を持っていなかったら、何も始まらない。我々は自分たちが主権者であることを今一度再認識しなければならない。

参考文献



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