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「わかりあえなさ」をわかりあう、仕事のしかたを考えてみた  トランスレーションズ展

「メールは、中学生が読んでもわかるように書くんだ」

新卒時代に尊敬する先輩に言われた言葉を今でも覚えています。分かりやすいメールを書く、当たり前のことじゃんと思われるかもしれませんが、自分が書いたり話したりしている言葉は、自分の想像以上に伝わりづらいのです。

同じ日本人で日本語話者同士でも、相手に伝わっているのは3割程度。それくらい、人間は他人の話に興味がないし、忘れてしまう生き物だ。

と思って日々を過ごしていた私にとって、冒頭の言葉は刺さるものでした。随分悲観的だねという声も聞こえてきそうですが、このベースがあるからこその喜びもあります。

自分の伝えた以上のことをやってくれた、自分が言いたかったことを膨らませて言葉にしてくれた、自分が書いたことを覚えていてくれた、

仕事をしていると、わかりあえないと思っていたのにわかりあえた(かも)!!という発見が一日に何度も訪れます。だから私は仕事が好き。

今回、そう再確認することができました。そしてこれからの仕事を楽しくしていくカギは、広義的な意味での「翻訳」からこぼれたモノを拾う力だ、という考えにも到りました。

前置きが長くなりましたが、先日訪れた「わかりあえなさ」をわかりあおう ートランスレーションズ展、すべてのビジネスパーソンにおすすめしたい理由を書いておきます。

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この世のコミュニケーションはすべて「翻訳」だ

展覧会タイトルの「トランスレーションズ」=翻訳というと、外国語から日本語へ、日本語から外国語へ、というものをまずは思い浮かべますよね。もちろん間違いではありませんがもっと広義的に見れば、この世のコミュニケーションの全ては「翻訳」で成り立っていると捉えることができます。自分の頭と心の中は「翻訳」して言葉や絵などの何らかの形で外に出さなければ、他者と共有することができません。

私たちは「翻訳している」なんて意識せずに生活していますが、実は日本語同士でも毎日たくさんの翻訳を無意識のうちにしていて、他者と関わる仕事はまさに翻訳の繰り返しであると言えます。

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「翻訳からこぼれ落ちたもの」とは

仕事とは翻訳の繰り返し、と書きましたが、仕事では「わかりやすく、早く伝える」ということを重視するあまり、「翻訳からこぼれ落ちてしまうもの」、つまり何らかの形に変換しなかった、できなかったものもあると思います。でもそれは、イコール「不要」なものでしょうか?

今回の展示の一つ「モヤモヤルーム」は、かなりロングな映像が放映されっぱなしになっていて、訪れたタイミングによって見られる部分が異なります。私が見たシーンをあえて一言で表すならば「好きの翻訳できないモヤモヤ」と受け取りました。

映像の中の相談者は、小学校の総合学習授業のゲスト講師。自分の仕事が好きだけれども、「総合学習」という解釈の広い科目名も相まって、自分が何をしているかを人に話すと「それってインタビューの授業ってこと?」「地域交流ってことだよね?」と一括りに解釈をされ「それだけじゃないんだけど…」「そこは一部分で、全体の本質ではないのだけど…」という何ともモヤモヤした気持ちになる、とのこと。

「ああ、この人は本当に自分の仕事が好きなんだ」、この映像を見て私はそう思い、最果タヒさんの『好きの因数分解』の言葉が浮かびました。

どうして好きなのか、と言われても答えようがない。答えなど必要なくて、私の前にそれが存在することを、ただ確かめ続けたい。「好き」という言葉はそのためにあって、それ以外何もない、その内側に何があるかなんて知ろうとするたびに爆発だけが起きる。風船が割れるみたいに真っ白になる。

少々抽象的な話になりましたが、自分が本当に好きで大切にしていることほど、好き!以上の「翻訳」が難しいのだと思います。言葉にし尽くせない「なにか」がたくさんあるから。

私は新卒の就職活動でこの壁に直面した苦労を思い出しました。どんなに考えて言葉を並べても、自分が好きで関わってきたフランスという国のことが伝わったという手応えが得られないときのもどかしさ。

結局当時は、うまく万人受けする「翻訳」はこれだという落とし所を見つけて大人ぶってしまいましたが、社会にはこのような「翻訳からこぼれ落ちたもの」が大量にあると思うのです。

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「翻訳からこぼれ落ちたもの」を拾うと、仕事が楽しくなるんじゃないか

洗濯を機械でできるようにしたい、テレビの映像をカラーで見たい、電話を持ち運べるようにしたい、という新しい製品によって目の前の課題を次々と解決していくような時代は終わったと言われています。

端的に言えば、世界は大多数の人々にとって「便利で安全で快適に暮らせる場所」にはなりましたが、まだまだ「真に豊かで生きるに値すると思える社会」になってはいないのです。 山口周『ビジネスの未来』

課題解決の時代は終わり、これからは課題自体が何であるのかや意味、豊かさ、といったものを見つけていく時代。しかし、それは課題解決よりも遥かに難しいことです。その理由の一つは「翻訳」されていない部分、「翻訳からこぼれ落ちたもの」の中に本質的な課題や意味が隠れているから、なのだと思います。

効率やわかりやすさ重視のビジネスの場では、就活生だった私も自分の中での「翻訳」に折り合いをつけてやり過ごしてしまいましたが、これからはその「うまく言葉に翻訳できなかった部分」「どんなに自分で言葉を尽くしても伝わらなかった部分」を拾っていくことに大きな価値があるのではないでしょうか。その「翻訳」からこぼれ落ちたものの中に、発見されるのを待っている課題や本音が潜んでいるからです。

近年、対話やMTGの内容を視覚化していくグラフィックレコーディングが人気を集める理由は、「翻訳」からこぼれ落ちたものをビジュアルを含めて拾っていけるから、というのも一つな気がしました。

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「翻訳からこぼれ落ちたもの」を翻訳しきらない勇気

スルスルと書いてしまいましたが、つい「〇〇ということ?」と短くわかりやすくを求めてしまう私たちにとって、翻訳からこぼれ落ちたものを拾うのは大変なことです。大事なことは、余白を持たせていくこと、無理に翻訳しすぎないことなのかな、と私は考えました。

今月の美術手帖でも、こんな文章を見つけました。

アーティストが「これはこういうものです」と言い切ってしまう、作家の表現としてそれをやってしまうことに対して、私はすごく抵抗がある。
まっすぐなひとつのメッセージに落とし込むことに対してすごく抵抗があります。例えばある時代のドキュメンタリー映画における運動って、「社会をこう変えていこう」というような、ひとつのメッセージによる啓蒙という側面も強いですよね。(中略)そこにある答えってすごく過激だったり一見正しかったりもするけど、人が個別に持っている豊かさも無視して展開されていることも多いなと思います。 (美術手帖4月号 小森はるかさん、瀬尾夏美さんの対談から

「無理に翻訳しすぎない」というのは伝わらなくてもいい、というのはちょっとちがっていて、「すぐに答えを出さない、悩み続ける誠実さ」のようなものなのだと思っています。

一般的に、悩んだり迷ったりすることはネガティブに受け取られることが多い。そんな時間があったら行動した方がいい。何があっても信念を貫くことで人はついてくる。だから悩んだり迷ったりする時間は無駄なのだと。たしかにうじうじと考えているだけでは何もものごとは前に進まない。しかしこうも思うのだ。「自分を疑う時間を持つことこそが、本当の意味での誠実さなのではないか」と。

解決できる課題はすでに解決され、世の中が複雑化している今、一人で簡単には答えの出せないことがどんどん増えています。では、すぐに答えを出さない、悩み続けていることを他者と共有するにはどうしたら良いのか?

翻訳からこぼれ落ちたものを、やさしい形で他者に受け渡すのは「問い」です。

やさしさとは難しいもので、だからこそ問いを立てるというのは、とても難しいのだと思うのです。

「幸福とは?」「愛とは?」「魂とは?」と、歴史上の哲学者たちも大きな問いに取り組んできました。良い問いとは、翻訳からこぼれ落ちたものをすぐに無理に翻訳しようとせず、何度も立ち返って挑み続けたくなるような、知的好奇心が刺激されるテーマ、のようなものなのだと考えました。

と書くと本当に壮大で難しいものに思えてしまいますが、私もまずは身近なところから問いの立て方を日々練習中です。細々続けているフランス語のレッスンで先生とディスカッションする際は、自分の興味のある分野の問い(と言えるか分からないレベルですが…)を立てまくることを意識して楽しんでいます。(楽しむことが何より大事)

フランス語の口頭論述の試験では、展開の型が決まっていて必ず冒頭で問いを立てる形になっています。さすが哲学の国。私も苦手な部分なのですが身体に染み込ませるように練習し続けている日々です。

「この記事によると、〜〜〜で、〜〜〜だ。また、〜〜〜である。よって、私は次のような問いを立てた。」

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読んでくださった方、ありがとうございます。日頃の自戒をこめて、そして社会人6年目に突入する意気込みとして…久々に長文を書きました。

この一年間、本当に色んなことが起こりすぎてnoteを書く暇もないほどでしたが冒頭の言葉のように、私の周りはいつも素敵な言葉をかけてくれる方ばかりで助けられています。ありがとうございます。・・・もれなく気になった言葉や嬉しかった言葉は私の手帳や日記に日々記録されています!笑(そして冒頭のように数年後にnoteに書かれるかもしれません。笑)

遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。





読んでいただきありがとうございました😊 素敵な一日になりますように!