ルビー手芸店の月並みで愛しい日常 (物語)
コチッ、コチッ、コチッ、頬杖をつく2人の天使が彫刻された掛け時計の音が響く中、みすずは踏み台に乗り、大きな木製の棚の幅広い引き出しを開けて中を覗き込んでいた。「カバンの持ち手はここだったのね。竹、木、こんな透明プラスチックも可愛いなあ」と一人つぶやいている。年季の入った艶のある美しい棚だが、引き出しを開けないと中に入ってるものが分からない。フランスの中都会のこの手芸店で働き始めて3週間、みすずは暇があるたびに、引き出しを開けては商品の場所を確かめリストを作り、細々とした商品のありかを覚えていた。
「カラン」とドアベルが鳴ったのを聞き、「ボンジュール」と愛想よく言いながら慎重に踏み台を降りて、みすずはカウンターに立った。お客が自由に見られる生地や毛糸もあるが、道具類は大概引き出しに入っているので、カウンターで用向きを聞く体制でお客を迎える。入ってきたのは学生と思われる男性。鮮やかなグリーンのトレーナー姿で、丸眼鏡をズリあげて生地の棚をみて、戸惑った様子で言った。
「えっと、テーブルクロス用の布を探しに来たんですが」
カウンターの前の壁一面に、ニ段、ニ重の引き戸になって並んでいる色とりどりの生地の光景に圧倒されたようだ。だが、若者の目がキラキラと輝き出しているのも、みすずは見逃さなかった。手芸の初心者と思われるお客が来ると、つい色々アドバイスしたくなり、みすずの気持ちもたかぶったが、後から押し付けがましかったと後悔することも多いから、“控えめ、控えめよ”と自分に言い聞かせて、カウンターを出て行きながら聞いた。
「サイズは決めてますか?コットンがいいかしら?汚れたら拭けるラミネート加工もあるし、綿麻も雰囲気が良くておすすめですよ」
若者はワイドジーンズのポケットからメモを取り出して
「サイズは1.2 メートルかける1メートル。ガレージセールで買ったテーブルに傷があってそれを隠したいだけで簡単なものでいいんです。ラミネート?のようなツルツルのじゃなくて」
としっかり説明した。
「なるほど。コットンなら無地がこの辺の棚、柄モノはこの辺、綿麻とか麻なら無地かストライプぐらいしかないけどこの上の棚になります。布は私が取り出すので声かけてくださいね。どうぞゆっくり見てください」
みすずは一通り案内するとまたカウンターへ戻って、書類に目を落とした。が、もちろん心はこの若者に釘付けで、どんな布を選ぶのか、みすずが大好きなサスペンスに満ちた時間だった。
若者は最初はハートや動物柄を見ていた。“可愛らしい柄がお好みなのねぇ”とみすずが思っていると、心変わりしてチェックのエリアに行き、大柄のチェック生地の中から色を選び始めた。みすずは“グリーン?” と思ったが、
「これにします」
と彼が指した正解は「レモン色」。オフホワイトとの組み合わせが爽やかだった。みすずは自分が注目していなかった布でも、お客が選ぶとその布が急に素敵に見えてくることがよくあって不思議だったが、この布もテーブルにかかっているのを想像すると、すごく感じのいい生地に思えた。
みすずは布を棚から出してカウンターに運び、ルビー色のエプロンのポケットからペンと伝票を取り出すと、品番と布の名前とサイズを記入し、電卓で計算した値段を書き添えた。
「カットしたらもう返品も交換もできないんですが、この布で幅145センチ、1メートルで大丈夫ですか?縫い代とか垂れる部分も入ってます?」
と聞いた。店主のセシルから、布のカット前は念押し確認をするように何回も言われている。
「大丈夫。縫ってくれる友達が考えてくれたサイズだから」
と若者は答えた。
「まあ、親切なお友達ですね」
言ってからみすずは生地を伸ばし慎重に測って印をつけ、一呼吸おいて生地にハサミを入れた。ジョキ、ジョキ、ジョキ...この作業はいつも会話がそっちのけになるほど緊張するのだった。お客にも伝染するようで、大概の人は黙っていてくれる。今日の若者も黙って作業を見届け、みすずがハサミを置くとまた口を開いた。
「その友達は自分の洋服も縫うぐらいの腕前なんです。僕も裁縫に興味あるんだけど、今は早くテーブルの傷を隠したくて」
「あら、お友達はうちのお店に来てくれたことがあるかしら?」
みすずは聞いてみた。
「友達と友達のお母さんが親切な店だって勧めてくれたんですよ」
「それは嬉しいことです」
みすずはちょっと胸を張ると、レジを打って清算をし、
「素敵なテーブルクロスができますね」
と畳んだ生地を若者に手渡した。彼は嬉しそうに頷き、「どうも有難う」と言うと入ってきた時とは別人のようにイキイキとして店を出て行った。みすずは店の前の広場を横切って行く背中を目で追いながら「君はきっとまた生地を買いに戻ってくる!」と念じた。
出した布を片付けながら、掛け時計に目をやると16時前、みすずはいつもこの時計の天使達に見守られているような気がしていた。「カランコロン」と勢いよくドアが開いて、「守備良く行ってる?」と言いながらセシルが戻ってきた。パワフルで良くも悪くも感情的で、みすずは時々疲れることもあるが、人情味のある彼女だからみすずを雇ってくれたのだと勝手に思っている。セシルは店の奥のアトリエスペースにある鏡の前でエプロンをつけ髪を少し直しながら、
「とってもいいお天気よ。外で休憩してきたら?」
とみすずに提案した。みすずは内心“待ってました ”と喜んでエプロンを外しながら、今しがた若い男性が友達の紹介で店に来たことを報告した。するとセシルは思案する様子で
「あら、お得意さんが紹介してくれたのかしら。名前は聞かなかった?」
とみすずの顔を見た。
「いや、そこまでは...すみません」
みすずは首をすくめて気まずそうにした。
「まあいいわ。聞けそうな時は聞いてね。お客さん一人一人との関係がとっても大事だから」
ドアが鳴ってお客が入って来たのを見て、セシルは「さ、行って」とみすずを促し、みすずはそっと店を出て広場の行きつけのカフェへ向かった。
“何で気が利かなかったんだろう?あの雰囲気だったら気軽に聞けたはずなのに ”と落ち込みながらテラスの端っこのテーブルに座った。いつもカフェオレに決めているから小銭を準備して、しばらく悶々としていたら、仲良くなった店員のシドニーがやって来た。
「ボンジュール、みすず!こないだのボタン付けのお礼のクッキーよ」
と目配せし、カップとクッキーのお皿を置いて小銭をとると、次のテーブルへ注文を取りに行った。みすずはそのクッキーにアイシングされた満面のスマイルを見て思わず微笑んだ。空は青く、いいお天気だった。
第一話終わり
この物語はフィクションです。
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