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自己の内面について。結局のところ「自分探しの旅」とは何なのか。

「自分探しの旅」という言葉が登場してから、もう随分と久しい。自分が初めてこの言葉を聞いたのは、おそらく中学生の頃だったと思う。もう10年ぐらいは前のことなのか。

この言葉はすなわち、自分を変えるきっかけを見つける、あるいは自分自身の人生を見つめ直す、ということが目的で多くの若者が旅に出ることを指して使われていた。

ありていに言って、「私の人生、このままでいいのだろうか?」という葛藤が、内なるエネルギーとして外に噴出したものだろうと思う。

中学生だった頃の自分は、漠然と「よく分からないことを言う人もいるもんだな」とネガティヴに捉えていた。それに加えて、彼ら彼女らの言う「インド旅で世界観が変わった」といったセリフにも、自分探しの旅の素晴らしさの方ではなく、むしろインド旅ごときで変わってしまう程度しかなかった価値観の軽薄さにフォーカスしてしまっていた。

ところが最近、本当にこの意味が実感として分かってきたような気がする。

そもそも自分は一人での海外旅行が好きだし、途上国も多く訪れた。大学時代の夏休みと春休みは、ずっと海外で極貧旅をしていたと思う。いわゆる「観光メイン」的なものよりも、「現地の人との交流」が旅の醍醐味だった。

もしかしたら、これはいわゆる「自分探しの旅」だったのだろうか。

とはいえ、決してここでその真偽を確かめたいという思いがあるわけではないし、まして「自分探しの旅」の善悪を判断したいわけではない。

ただ、「探さなくても自分はもうここにいるんだよ」みたいな元も子もないような批判は、シンプルに的外れだな、と思えてならないのだ。

なぜなら、「構築」と「崩壊」を繰り返して自分の人格を形成していく過程で、二十歳前後の青年が「自分の内面に徹しようとする」経験を欲することは、とても高次元の欲求だと思うからだ。

お金を稼いだり、社会での成功を手にしたり、そういうことから出発して、最終的に行き着いた場所が「自分の内面を形成し直す」という思索の出発点とも呼べる態度なんだと思う。

同じ世界を目にしていても、自分が持つ内面の感覚によって、そこで捉えられる意味は少しずつ変化していく。そういう意味でも、自分の精神が構築する経験と崩壊する経験が日常的に、かつ強制的に起こりうる「自分探しの旅」を望むことは、精神の健全なあり方の一つではないだろうか。

まぁ、それを理由に目の前のことから逃げちゃダメなんだけどね。

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