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『信濃大町実景舎』 目

信濃大町実景舎 | 北アルプス国際芸術祭

まず一番気になったのは、階段を登り山を登ってきてる以上、眺めの良い景色が広がってることなんて分かりきっている、ということ。
風景を見て、「おー」って思うだけなら、柵で囲いながら丁寧に案内する必要もそんなに感じない。(階段を結構登らないといけない横の展望台の方が、単純な景色の良さの感動はあった)
ただ少し深く考えて、窓枠を含めた全体を絵として考えると、ホワイトキューブの中にある絵画として、景色が見えてくる。
庭園とか枯山水とか風景画とかアンドレアスグルスキーの写真とか、そういう眺めて楽しむ「もの」のように窓を含めた風景全体が見えてくるのかも、と思った。

このフレーミング自体は特別新しいものでもないけど、あの作品はフレーミングされたものを見ている自分の存在を感じるところがあると思った。

自分は山を登ってこの作品に来るまで、その「もの」の方にいたわけで、見終わって山を下ればまたものの中に戻ることになる。
眺めていた対象である風景に、戻って行く自分の存在を、出口で感じてたのかなと今更思う。

どちらが外側で内側か分からないような、というか全部外側なようなあの家は、複雑で広い風景を「街」というものとして再認識しつつ、通り抜ける自分を確認するためのトンネルのようで、そう考えると面白いかもな、と思い始めた。
そのトンネルは、街の中でも外でもない「なんか分かんないどこか」としてあることで、より街の風景と対峙するのに相応しいのかなと思う。

鑑賞者は、建物の間取りや階層を無視するように無差別に延ばされた導線ヘ誘われ、座標的空間のなかで「何でもない家具」や「北アルプスの巨大な峰」と唐突に関係する。
緩やかにカーブする白い空間の居心地のなかで、信濃大町の風景や身体に対峙する作品となるだろう。
信濃大町実景舎 | 北アルプス国際芸術祭 より引用

キャプションにもあるような、家具(=人の生活?)や巨大な峰(=自然?)といった、信濃大町の風景すべてを作品として感知することのできる装置なのか、と考えた。

2017.7.17 信濃大町