理系科目と体育の類似性から学校の教科を2つに分類をする

学校の教科は従来、教科書を使い、主に座って勉強する主要5教科と実際に体を動かして体験して勉強する副教科の二つに分けられてきた。しかし筆者はこちらの分け方のほうがしっくりくるという分類があり、それを紹介する。

インプットの過程

インプットの過程では従来の二分法は正しいと考えられる。まず、座学の場合、どんな教科であってもルールや決まり事を言葉で教わることになるだろう。英語なら文法がルールであるし、数学ならルールを教わらないと何も始まらない(数学の場合、イメージからもルールを教わることはできると思うがテストに答える場合、解をは言語でアウトプットするため言語的にルールを教わる必要があると考える)。体育や家庭科、図工や美術はまず、イメージからインプットする必要がある。もちろん教科書が配られそれによっていろいろ説明が書かれていると思うが、インプットしたイメージを用いてアウトプットをするため、あくまで補助と考える。音楽はインプットは言語の部分が大きく占めるように見えるが、先生のアウトプットをそのままインプットしアウトプットしても成立するため、言語を介さなくても成立すると考え、イメージ側とした。

何故、従来の二分法ではだめなのか。

私は、ある教科の出来不出来はインプットの部分ではなく、90%アウトプットの能力で決まると考えているからだ。例えば中学の社会だとインプットしたものを直接アウトプットする、つまりインプット能力=アウトプットの結果となる教科だと考えていて、実際中学時代、配られたテスト結果の分布表で圧倒的に社会が差がついていなかったように感じる。つまり、教科の成績を決めるのはアウトプット能力>>>超えられない壁>>>インプット能力だと考えた。

筆者の考える二分法

私の考えた二分法は、答えをアウトプットする過程で視覚的イメージを重視して使うかどうかで分類する。体育、音楽、家庭科などは脳内にある視覚的イメージを再現してアウトプットするため、勿論視覚的イメージを重視する側の教科だ。では、国語の場合はどうだろうか。私の経験から話すのだが、国語はイメージしないで、文章の論理構造を考えたほうが点がとれたのだ。予備校や学校の授業でも先生が文章のある部分に線を引き、文章の構造について話していて、黒板に何かの図形な絵などが描かれることはまずない。よって、視覚情報のイメージはアウトプットにあまり必要がないと考えられる。英語、社会の場合も明確にこちら側であろう。では、数学の場合どうだろう。もちろん、問題をアウトプットする過程で公式などの言語情報は必要だ。幾何学の場合、明確に視覚的イメージからアウトプットをするというのはわかるだろう。それ以外で例えば二次関数の最大最小の問題を例にして考えると、頂点が定義域のどこにあるかを視覚的にとらえないといけない。式の変形し解を導く過程でも、視覚的に式の形をとらえて変形をしていく。数学が視覚的イメージを使わないといけない科目であるという証拠はペンを持たずに問題を解けと言われた場合、他の科目に比べて数学は難易度があがり、これは思考過程の視覚的イメージがとらえられないと数学は解くことができないと言え、数学を含む理系科目は視覚的イメージを重視するというところが体育を含む副教科ととても類似していると考えた。

数弱は運動音痴?

時々、国語や英語は抜群にできるのに、なぜか数学ができない人がいると思うが、こういう人は言語能力はとても高いが、視覚的イメージをする能力が低いのではないかと私は考えた。よって、これは私の仮説だが、五教科で数学だけできない人には運動音痴が多いのではという説だが、検証の使用がないため永遠に仮説のままであろう。


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