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京都一人旅で出会った、あの美酒のひととき

年末である。夫が風邪でダウンしているので、ひとりでテレビの特番を見ながらちょこちょこと掃除をしたりする。手の届く範囲をササっと片づけるくらいなので、大掃除というにはあまりにも頼りないが、そんな年末も良いだろう。

本棚のほこりを払っていると、1冊の旅行ガイドブックが出てきた。タイトルは「京都ひとり旅」。そしてそこには1枚の大判な紙が挟まっていた。

これ、私が社会人2年目のときの京都一人旅で使った地図だ。

開くと、詳細な京都観光地図に細かな字で書き込みがされている。赤文字で観光地、オレンジ色で注目すべき名所、緑色で自身が通った道をなぞっているようだ。

そのなかに、ひとつだけガタガタした丸を見つけた。先斗町の周辺で、目的地の名前も書いておらず、他の詳細な書き込みに比べると、少しへんてこな感じがする。

時間をかけずに、あっと思い出す。あの旅の理由と、そしてあのとき出会った一軒のお店とお酒について。

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今から9年前、2014年の私は大変くさくさしていた。新卒入社した印刷会社で営業2年目。なんとか仕事を覚えて一人立ちし、クライアントからも社内からも色々な要望を言われ、毎日抱えきれない仕事と格闘し、深夜近くまで残業することもざらだった。

クライアントの言葉に右往左往し、現場からの言葉に憂鬱な気分になる。今なら、なんてことないと受け流せるけれども、当時の私はすべて真に受けてダメージを食らっては、不甲斐ない自分に少しずつ失望していったんだと思う。

そんな日々を送り秋を迎えると、ふと思った。

「そうだ、京都に行こう」

いつもはパンパンの自分の仕事のスケジュール。でもなぜか、10月最終週の金曜日だけ、まるで示し合わせたようにぽっかりと予定が空いていることに気付いた。

そういえば、これまで1日の有給も使わずに働いてきた。目の前のことにいっぱいいっぱいで、休みをとる暇なんてなかったから。

でも、もしかしたらこのタイミングで、ひと息ついてもいいかもしれない。金曜日から日曜日までお休みをつなげて、京都に行こう。せっかくだし、はじめてのひとり旅というものに挑戦してみてはどうかしら?

次の日、上司に有給を取りたいことを伝え、仕事をなんとか調整し、社会人生活初の有給取得申請を出した。2泊3日想定で新幹線のチケットを取り、ゲストハウスの予約をした。今なら気軽にぽいぽいと使ってしまう有給だが、この頃の私はまだ、お休みをもらうという事実に恐縮半分、嬉しさ半分、そしてちょっとだけドキドキしていたことを覚えている。

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結局、有給当日は始発まで仕事をしていた。わんさかとある急ぎの印刷予定の指示書、そして見積もりを作成していたらいつの間にか終電の時間を逃していた。仕方がないのでそれ以外の仕事も片付け、そのまま会社で少し仮眠をとり、始発の時間を待つ。

ガラガラの電車に揺られ家に帰宅し、シャワーを浴びてトランクケースにばたばたと荷物を詰め込み、すぐに家を出て東京駅に向かう。東京駅のホームに滑り込んできた新幹線にいそいそと乗り込み、席についてようやく一息つく。

京都まで2時間とちょっと。車窓の外を流れていく景色を見ながら、ようやく自分が休みをとって、そして大好きな京都に向かっていることの実感がわいてきた。

私は京都を舞台にした作品を多数執筆しているとある作家さんの大ファンで、いつか聖地巡礼に京都を訪れたいと思っていた。当時、特に好きだった作品は、縦横無尽に京都の町を歩く乙女に片思いした先輩が、彼女を振り向かせるためにてんやわんやする小説

一番印象に残っているのは最初の章で、共通の先輩の結婚式に参加した二人が、夜の木屋町から先斗町界隈のおもしろおかしい事件たちに巻き込まれるエピソード。乙女は様々な人とお酒に出会いながら夜の路地を練り歩き、そしてそれを追いかける先輩は、ズボンの追いはぎにあったり謎の絵の売買取引に立ち会ったりする。

なによりも印象的だったのは、乙女の飲むお酒のなんとステキで楽しそうなことか!

いつか京都で聖地巡礼をし、そして私も乙女みたいにお酒が飲みたい。そんな長年の想いがようやく叶う日が来たのである。

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京都駅に着いたことを告げる社内アナウンスがなり、はっと目覚める。始発まで会社にいたためか、いつの間にか寝てしまったようだ。慌ててスーツケースを引きずり出し、急いで新幹線を降りた。気づいたらここは京都らしい。

実感があまりわかないまま、駅を出る。1日目、まずは肩慣らしということで、聖地巡礼を前に国立京都博物館に立ち寄る。ちょうど鳥獣戯画展がやっていたタイミングだったのだ。かわいいウサギやカエルになごみながら、昔の人の創造力の豊かさに感服したりする。そのほかにも建仁寺で「風神雷神図屛風」を見たり、京都御所の見学ツアーに参加したり。

途中で、先斗町の入口を発見したが、本日は素通り。明日のお楽しみというやつだ。

ゲストハウスにチェックインし、荷物を預けてお部屋を確認する。私の他には外国の方が何人かいるようだった。フロントに大判の地図がおいてあり、「ご自由にどうぞ」と書いてあったので手に取ると、京都一帯を記したものであった。

これを旅の指針にしようと、今日行ったところと、これから行きたいところに印をつけていく。なんだか宝の地図みたいになった。

夜は事前に目星をつけておいた、古民家を改装したカフェバーに行く。地元の常連さんと話しながら飲むお酒はとても美味しく、お話の中で近所のラーメン屋さんをお勧めいただき、お酒の締めにラーメンに舌鼓をうったり、その帰り道にスマホをなくして絶望したりするなどしたが、私のポンコツエピソードがふんだんに詰まったこの話は今回は割愛しよう(ちなみに、スマホはコンビニで無事に救出された)。

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2日目、聖地巡礼本番である。琵琶湖疎水、南禅寺、哲学の道、進々堂、吉田神社に京都大学。レストランまどいの前を通過し、百万遍交差点を抜け、知恩寺を見学。糺の森を歩き下賀茂神社でお参りをした後は、出町柳駅で叡山電車に乗り込んで、一乗寺で降りて本屋さんに寄った。そのあとは、再び電車に乗って祇園四条を目指す。

さあ、ここからこの旅のメイン、先斗町に向かう。お店の目星はつけておらず、まったくのノープラン。私も先斗町で短い夜をずんずんと歩いてステキなお酒と出会おうじゃないか。

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そんな風に考えていたのも束の間、私は先斗町に入り大変に戸惑ってしまった。

先斗町の入口。オレンジ色に照らされた路地。

狭い路地にひっきりなしにお店の入口が並び、日が落ちてほのかなオレンジ色の街頭に照らされた、歴史を感じる木製の扉の数々。それらは、小鹿のように足がぷるぷるしている社会人2年目の小娘を通すなんて、まったくもって許さないような門構えに見える。ここなら入れそうかな、と思って覗いたお店は、若い団体客でにぎわっていて、とても一人で入れる雰囲気ではない。

どうしよう。どのお店に入っていいか分からない。

先斗町の端から端まで往復しうろうろしては、立ち止まってお店の様子を探るのを繰り返した。

入口近くまで戻ってきたときに、一軒のお店が目に入る。先斗町のお店にしては珍しく、ガラス窓から中の様子が見える割烹料理屋。

カウンターのみのこじんまりとしたお店で、まだできたばかりなのだろうか、壁や机などにつかわれている白い木材が、照明を反射してぴかぴかと明るい。店内にお客さんはおらず、板前さんがせっせと下ごしらえをしているのが見える。

入口に置かれた看板には、9種類のおかずが並んだ「京都おばんざいセット」と記されている。赤いお盆のうえに小皿が並べられ、品のよさそうにおばんざいが並ぶさまはとてもきれいで美味しそう。お酒と楽しむにはもってこいに見えた。

ここに至るまで、何十分と先斗町をさまよっている。今日一日たくさん歩いて、すでにお腹はぺこぺこ。このお店を逃したらもう他のところではご飯もお酒も味わえない気がしてきた。

割烹料理屋なんて入るのは初めてである。でも、そんな風に一歩を踏み出して、楽しいお酒を味わうのが、今回の旅の一番の目的ではなかったか。

勇気を出して、きれいな扉に手をかけて、ぐっと力を入れて開いた。

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「一人なんですけど、大丈夫ですか?」

お店に入った私の第一声は、確かそんな感じだった気がする。カウンターごしの板前さんはちょっと驚いた顔をした後に、「どうぞ」と頷いてくれた。第一関門は突破である。

おしぼりとメニューを渡されて読み込む。でもまずはさっき看板で見た「おばんざいセット」を頼むことにする。それと最初の一杯はビールだ。板前さんは「かしこまりました」といって調理に入る。

ドキドキが冷めやらぬまま、ビールを飲んで料理を待つ。店内をぐるりと見まわすと、しつらえは全体的にぴかぴかで、やっぱり新しいお店らしい。お店の片隅にはガラス貼りの冷蔵庫があり、たくさんの日本酒が置かれ、出番を今か今かと待っているようだった。

出てきた「おばんざいセット」はお刺身を中心に、鴨、焼き魚、お豆腐、鮑、だし巻き玉子のほか野菜のおばんざい数点が、小皿の上に上品に並べられていて、見た目にも楽しい。板前さんに頼んで写真を撮らせてもらう。

おばんざいセット。きれい。

お刺身は新鮮で、そのほかのお料理も出汁がしっかりきいていて美味しい。いつの間にか、ビールが進んでいく。

静かな店内で料理とビールをこっくりと味わう。なんて贅沢な時間なんだろう。

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「京都へは観光ですか?」

料理を味わっていると、カウンターの中の店主さんから声をかけられた。手元では作業をしながら、こちらに目線を向けてくれる。30代後半から40代くらいだろうか。外からお店を見たときは気づかなかったが、思ったより若い。

私は、有給をとって一人旅をしていることをかいつまんで話す。先斗町で美味しいお酒を飲みたいと思っていたけれど、どこに入っていいか分からず、勇気を出してこのお店に入ったことを伝えると、ふわっと笑って「そうですか、それはよかったです」と言ってくれた。

そのままぽつぽつと会話を続ける。東京の印刷会社で営業をしていること、入社2年目で仕事が大変なこと、そして、今回の旅の目的が大好きな作家さんが執筆した作品の、聖地巡礼であることなどを話した。

板前さんにお店について聞くと、やはり最近開店したという。お話していた板前さんは店主でもあり、修行を経て独立に至ったそうだ。この店にも一人、修行中の人がいるそうで、板前さんが呼ぶとカウンターの奥からひょこっと顔を出してくれた。簡単に挨拶をする。

そんなお話をしながら、次のお酒を頼む。ビールを何杯か飲んでいたので、次は日本酒にしようとメニューを見せてもらった。

日本海側のお酒が多いラインナップで、逆に京都の地酒はひとつもなかった。お勧めを聞いて、石川のお酒を選んでもらう。お酒のアテにはあぶりしめ鯖を選んだ。

あぶりしめ鯖と日本酒。最高の組み合わせ。

薦めてもらったお酒は、透明なとっくりにゆったりと収められていて、なんだか魔法の飲み物みたいに見える。一口飲んでみるとほんのり甘味があって美味しい。しめ鯖と一緒にいただくと、脂ののった鯖に酢がきりっときいていてとても合う。

もうすでに成人して社会人にもなって、なんとなく自分のことは自分で責任をもち、なんでもできるようになったつもりでいたけれど、こうやって今まで味わってこなかった美味しいものを食べ、お酒を飲んでいると、「大人の階段」をのぼっている感じがした。

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店主兼板前さんからも「一杯いただいて良いですか」と訊かれたので、どうぞどうぞと同じお酒を飲んでもらう。お店の人におごるのも初めてだ。またひとつ、大人になった心地がする。

今なら良いかと思い、尋ねてみる。

「どうして、京都のお酒はおいてないんですか?」

聞いておきながら、あれ、と思う。もしかしたら失礼な質問だったかも。別に、「京都のお店=京都のお酒がある」というルールがあるわけでもないのに。板前さんとも打ち解けていた気がしていて、少し気がゆるんでいただろうか。でもなんだか気になってしまった。

板前さんは、「あぁ」とちらりと透明な冷蔵庫の方を見やった。

「たいした理由はないんですよ。ただ、どれも師匠のお店で出していたお酒なんです。働いているうちに、自分もそのお酒が好きになってしまって。いざ、自分の店を出すとなったときに、つい同じ銘柄を選んでしまったんですよね。」

「お師匠さんのお酒を引き継いだってことですね」

そう伝えると、店主兼板前さんはちょっと恥ずかしそうにしながら、「そういうことですね」と返してくれた。

お勧めを聞いたら出してくれた魚。これも美味しい。

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そのあとも話をしていたが、前々日に始発まで仕事をしていたこと、前日もスマホを探して夜遅くにうろうろしていたこと、それにあたたかいお店の雰囲気も相まって、いつのまにかうつらうつらとしてきた。店主兼板前さんにお願いして、タクシーを呼んでもらう。そういえば、タクシーを呼んでひとりで乗るもの初めてだ。またひとつ、大人の階段をのぼってしまった。

お会計をして、お店を出ようとすると、店主さんがタクシーのところまで送ってくださるという。確かにお店の前の狭い路地にはタクシーは入れない。

夜の風が冷たくて、もうすぐ冬が訪れそうな気配がする。通りまでの道を歩きながら、板前さんに「美味しかったです。ありがとうございました。」と伝えると、また「それはよかったです」と答えてくれた。「いいお店ですね」と伝えると、今度は「ありがとうございます」と返してくれる。

タクシーを見つけ、のそりと乗り込む。ドアを閉める前に、もう一度「ありがとうございました」と伝えると、丁寧なお辞儀をしてくれた。

ドアが閉まり、タクシーが出発する。素敵な夜だったなと思いながら、飲食店のオレンジ色の明かりがどんどん遠ざかっていく。

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翌日は、朝から六角堂でお参りをし、鴨川沿いをのぼってイノダコーヒーを経由、そのあと出町ふたばで新幹線のお供用に豆大福を入手し、京都駅に向かった。

新幹線が京都駅を出発し東京を目指す。先ほど購入した豆大福を食べながら、地図を開くと、この2泊3日で訪れた様々な場所が記してある。

ふと、昨日の夜のことを思い出す。勇気をもって訪れたお店で、美味しいご飯とお酒をいただきながら、店主兼板前さんとぽつぽつと自分のことを話す。新しいぴかぴかのお店だったけれど、板前さんが師匠さんから受け継いだであろう料理とお酒。それらを、こっそり教えてもらったお店のルーツに思いを馳せながら、しみじみと楽しんだ。

そういえば、地図にそのお店のことを書きそびれていた。秘密の大切な場所として、こっそり丸を書きこんでおく。新幹線の揺れに少しガタガタした、いびつな丸になってしまったが、私の大切な想い出となった。

あの、こじんまりとした、そしてゆっくりと時間が流れるお店は、今まで私が出会ったことのない空間だった。私は間違いなく、京都で「ステキで楽しいお酒の時間」を過ごしたし、これはあの小説に登場する乙女にも負けないのではないかと思う。

彼女みたいにいくつものお店を回ることはしなかったが、日々、一生懸命働いて、少しずつ削られながらも頑張ってきた自分への、贅沢なご褒美のようなあの時間。きっと、何にも代えがたいものだ。

一人旅の予定と想い出を書き込んだ地図。
9年後の今も色褪せないでいる。


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