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平等、多様性、格差という弊害

お国柄

米国などは「公平性を希求する」国民性です。各人は「それぞれが決まった役割を平等にこなす」のではなく、「互いに気を配りながら積極的に自らの役割を果たし、その結果を相手からの反応で確認する」ことを当然としています。

端的に言えば、裕福を勝ち取る者は相応の役割を果たしていることを意味し、その役割は常に公平に評価され、チャンスは平等に与えられます。

そのため、平等という概念が入り込むと急激に全体のパフォーマンスが低下し、社会全体がギスギスするのもアメリカの特徴です。アメリカでは、平等な環境は個人が個人と足を引っ張り合うゼロサムゲーム(一方が利益を得たならば、もう一方は同じだけの損をし、全体としてはプラスマイナスゼロになること)によって、利得を得る人もいる一方、そうでない人との差は「利得か損失」でしかなく、あまりにつまらない状況とされます。

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日本では、公平よりも平等が重んじられます。とくに「現状不満足」な人にとっては、会社でも家庭でも夫婦間でも、どこであっても不平等が蔓延しています。この不平等社会を打破するために「男女平等」や「部下も上司も分け隔てなく」、「東京も北海道も沖縄も一様に」という発想が生まれます。

アメリカを見習えと言っているのではありません。しかし、平等を追求することにはさまざまな弊害があります。

閑話休題

『私が日本に戻りたくないのは「調和」の中で生きる能力がないから――。2021年のノーベル物理学賞の受賞が決まった米プリンストン大学の真鍋淑郎・上席研究員が、記者会見でこんな言葉を残した。』

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「日本人がイエスという時は必ずしもイエスを意味せず、ノーのときもある」「米国では他人が感じることをあまり気にする必要がない」。会見で真鍋氏がそう語ると、記者の前列に座っていた米国人は思わず笑い、「確かにそうだ」と反応していました。真鍋氏は米国の研究環境の素晴らしさにも言及。「上司が寛大で、研究で何でもやりたいことができた。コンピューターを使いたいだけ使えた」。温暖化懐疑論者がいても、潤沢な資金が与えられ、好きなだけ研究に打ち込むことができたということです。

アメリカでは「自己」が尊重され、日本では「全体としての統一感」が尊重されることを言い表しています。どちらが良いとは言い切れません。日本では他人と同じ意見、同じ環境であることで安堵し、“同調”をヨシとします。願わくば、個を尊重した“協調”をヨシとすることのほうが、全体としての成果が早く良い結果を生むと思うのです。

平等という弊害

話を元に戻します。平等は「他人との差異」を強く植え付け、軽度の違いにも敏感になります。しかもそれが、不安・不満・嫉妬の原因となります。

何かの要素を他人と比較し、自分が劣っていると感じると、それが別の環境、自分以外の人に原因があると転嫁します。平等を主張する者ほど、不満ばかりで、何にでも反対します。平等という弊害です。

自分に起こった問題は、周囲(環境)にも起こっている問題です。
そして、自分に起こった問題は、自分に原因があるのに転嫁してしまうのは、不平等だという思考です。

多様性という弊害

アメリカは国民意識の「統一」を目的にして“ダイバーシティ”を謳っています。そうでないと、さまざまな人種・文化・思想・価値観をもった国民をまとめることができないからです。

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その問題は、いつからか”多様性”という言語で日本に輸入され、論じられるようになりました。

日本で論じられる“多様性”は、あらゆる嗜好を含めた「差」を見つけ、分断を生むために使用されます。例えばLGBTQがもつ嗜好は「特徴」ではなく「特殊」であり「差がある」ため、その人を「差別しない」ようにと、“多様性を尊重した社会”なる曖昧で惨い表現をします。完全な”多様性を尊重した社会”は、誰もが全てのことで平等であるという実に薄気味悪い社会です。

格差という弊害

日本には、格差があるのでしょうか。2021年10月の総選挙では、各政党が公約で所得水準の「2極化」を連呼し、問題提起するようになりました。日本の現状は、本当に“格差社会”と言えるのでしょうか。

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アメリカでは、景気が悪くなるとホームレスが町中に溢れたり、ローンの返済ができずに破産する家庭が急増したり、雇用環境が急激に変化します。アメリカは、日本のように国民が全員(原則的には)年金制度や健康保険制度の恩恵を受けることができるわけではありません。受ける恩恵も所得水準によって異なります。一方で、大富豪と呼ばれる起業家などがいて、経済大国の立役者でもあります。世界の長者番付の上位に名を連ねる人たちです。

それに比べると、日本に蔓延するとされる格差社会なんてのは、どれだけ規模が小さいことか。生活困窮者には公的な支援制度が整い、社会保険制度も全員が加入しています。政治家のみなさんは、何をもって、どれくらいのレベルを“格差”と定義しているのか聞いてみたいものです。

もう一歩踏み込むと、格差が生じることで、どのような問題が生じるのでしょうか。

どこかの政党が主張しているように「貧しい家庭の子は十分な教育を受けることができない。結果、裕福になれない。」のも事実です。しかしこれは、親の収入に差があるだけのことで、格差社会に結びつけるのには無理があります。教育制度・環境の問題と、社会全体の格差とは全く異なります。教育環境の不具合は支援制度で解決できます。支援制度が実行できるレベルなら、格差社会とは言えません。

また、一部の投資家だけが儲けたり、一部の大企業だけが潤っている状況を悪とする風潮があります。これは、当該投資家や企業に能力があるだけのことであって、発信者の僻みでしかありません。

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何もかも平等にしようとすると他人との差に敏感になるだけで、不満や嫉妬に繋がります。だとすると(格差を助長するわけではありませんが)、能力のある個人や法人にはそれなりの資金が集まることのほうが自然で、何ら問題ありません。

縷々として

性的な嗜好、姓の選択、収入の多寡、生き方や人種、言語や身体的特徴。

それをアメリカのように“ダイバーシティ”と捉えるのか、日本のように“多様性”と決め打ちするのか、これもまた考え方次第、多種多様なのですが…。

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縷々(るる)として、皆が豊かな社会を実現すべく”協調”体制が整うことを願うばかりです。「すべてが平等で、同調を求める社会」は気味が悪い。

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