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哀しみと喜びの間

 月曜の朝、スマホのアラームが鳴る。五分経った頃ようやく身体を起こす。六枚切りの食パンを焼きコーヒーを煎れる。後はバナナを食べて歯磨き、着替えて出社の準備をする。いつも通りだ。ただ、気に入っていたボールペンが見当たらない、何処かへ忘れたか。まあいい、時計を嵌めて鞄を持ち家を出て会社へ向った。

 火曜の朝、なんだか頭が重い、そんなに呑んだかな。晩酌は基本ビール一缶と決めていた。食べて着替えて出社の準備。相変わらずボールペンは見つからなかったが、玄関横にダンボールの束があった。そういえば昨夜、宅配業者が来て置いていったな。出掛けに天気予報を見て、傘を持って行くことにした。

 水曜の朝、雨音でアラームよりも早く起きた。今日は朝から会議、その準備で早出だ。食べて、歯磨き、着替える。取り込んだ洗濯物が山になっている、畳まなかったんだな。昨夜の記憶は、呑んでしまって曖昧になるのが常だ。そうこうしてるうちにいつもの出社時間になってしまった。急ごう。

 木曜の朝、起きたら部屋が散らかっていた。郵便物にレシート、雑誌や引き出し、脱いだ服、ソファーの位置までズレて斜めになっている。どういう事だ、鈍く頭痛がする。今日は可燃物のゴミの日だからとりあえずそれだけは片付けなければ。後は帰宅後にしよう。そして着替えてる時に思い出した。クリーニングへ出したワイシャツの受け取りを忘れてた事、今日は必ず。ゴミ袋を持って家を出た。

 金曜の朝、今日は各種料金の引き落とし日だ。気になって通帳を確認してみると水曜日になかなかの金額を引き出している。この金額と現金の所在を思い出そうとして、また鈍い頭痛に気が付いた。ここのところ鎮痛剤が朝食のセットになっていた。記憶の欠落はトラブルの始まりなのか。気持ちの整理はつかなかったがとりあえず出社する事にした。

 土曜の朝、眠りたいだけ寝てから起きた、二連休だ。スマホを見るとLINEの通知がいつもより多い。開くと里子というアカウントから、待ち合わせ場所に来たけどまだ?という内容が数件届いていた。・・・誰だったか思い出せない。後頭部が重くなるような感覚と、嘔吐しそうな不快感を覚えた。親友にアカウント里子の事をLINEで尋ねてみた。返事は早かった。指輪は見つかったのかと聞かれた。里子は僕の恋人で近々プロポーズすると。だからご両親への挨拶や婚約後の同棲の準備で忙しい事など話をしていたらしい。なぜ、まるで思い出せない、いや。・・・繋いだ細い手首、肩になびく髪の香り、胸に満ちるビオラのような声、断片的なイメージが浮かんでは混ざり、灰色の渦になっていく。僕は、行かなければならない理由があった、あった筈だ、あったのかな。現実感の無い記憶がゆっくりと湧いてきたその時、頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走った。玄関に向かっていた僕は、ドアノブに手を伸ばし体を支えようとしてそのまま突っ伏して倒れ、意識を失った。

 日曜日、明るい部屋で目を覚ました。目を腫らした女性がこちらを覗き込んでいる。
「シンジくん、分かる?」
「え・・・」
「ここ病院だから、大丈夫だから」
「病院?」
寝たまま答えた。
「待ち合わせに来ないから部屋に行って、そしたら倒れてて」
恐らく里子さんなんだろうな、この子が。声色、握ってくれた手の感触に覚えがあった。
「ありがとう、助けてくれて。それで、何があったの」
「・・・シンジくん、脳の血管に瘤が出来てそこから出血を起こしたの」
「えっ」
「瘤の出来た場所が悪くて記憶障害が起きてたのかもしれないって先生は仰って」
「・・・」
少なからずショックを受けた、まだ三十代の僕には想定外の病気だ。
「先生に知らせてくるから」
里子がカーテンで仕切られた部屋を出ていった。暫くして主治医らしき人と戻ってきて簡単な質問をされた。まだ現実だと思いたくなかった。

 大部屋にカーテンのパーテーション。リズムで落ちる点滴。巻かれた包帯。手首の識別タグ。消毒液の匂い。踵を引きずる足音。世界は哀しみに満ちている、だから幸せを見つけて喜びにするんだ。自分に言い聞かせるように胸の中で叫んだ。

 里子が病院職員からサインを頼まれている。窓から差し込む陽に薬指のエンゲージリングが眩く輝いていた。見覚えのあるボールペンを持って。

溢れた涙がこめかみへ耳へと流れていた。


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