個の時代と言われる今、他者とつながることの効用と弊害

ごきげんよう。
タイトルにはポジティブなことを書くように見せかけておいて、この筆を取ったのはネガティブな感情から生まれたものによる。

前提、これは自分の感じることと意見なので普遍的なものではない。
むしろそうではないのであれば積極議論をしよう。

強烈なモヤり

こんなことがあったんだ。
モヤリなんて言葉は生半可だ。あえて包まずに言えばしんどい。不快。
他人に対して基本はネガティブな感情を抱かない(と思ってた)自分をここまでさせるのはなんなんじゃ?と思い言語化するに至った次第。

誰と繋がるか、の意味について

風の時代だなんだ言われ、従来の固定的価値観からの解放は至上命題になり、個人としてどうあるかというものが問われるようになった。

これは時代の正しいとするレールに乗れなかったことで苦しんできた人には、希望の光となっている。
一方で、価値観の多様化は不安をもたらす。
絶対的正しさのない中、自分一人でこの相対的正しさを信条とできるだろうか?
地域、組織、宗教etc 不自由を差し出すことで大きな共同体に包まれていた安心感はもはやない。

直近ではパンデミックにより、大きな根幹的価値は揺るがされまくり、安寧の眠りから揺り起こされた人もいたのではないだろうか。

そんな時代のソリューションがコミュニティだ。
バックグラウンドはバラバラであろうが、何か一つ、自分にとって信じるに値する価値観をかがり火にした緩やかな連帯。

何者にかならねばならない=誰かにとっての自己効力性を示さねばアイデンティティが保てないというような苦しさなく、そこにいる、ありのままでただそれだけでいい。

マズローでいう②安全 ③社会的 ④承認 の欲求ぐらいまでは軽く満たせる。コミュニティのスタイルによっては⑤の自己実現につながることもある。

金銭的価値に換算しきれないソーシャルキャピタルの循環と増大により、人生を豊かにしてくれる側面がある。

↑こちらの9つのキャピタルというものはいい発見であろう。

上につらつらと記してきたように、こんな時代だからこそ価値観を共有できる関係性が複数あれば、サバイバルできるし心理的にも健全に生きていくことができる。

いわば、セーフティネットなんだ。

つながることを目的化しすぎることで起こる弊害

さて本題。

つながりと共同体がある程度まで僕ら現代人を満たしてくれることはわかっただろう。

だが「つながること」を手段ではなく目的化した場合、こんなアンハッピーなことが起こるよということをいくつか紹介しておこう。

Case1 繋がりたい欲が一方的な場合

Bさんは、Aさんとお近づきになりたい!という思いがある。
念願のパーティでBさんはAさんに話しかけた!
一方的に愛の矢を畳み掛けまくるが、Aさんにとっては、肝心の自分がこういう価値観というところが見えてこない。
ん〜なんかこいつ重いなとなってちょっと距離を取られちゃいましたという話。

お近づきになるのって、あくまで後天的。
何か同じ所属だとか、ビジネスであれば相互にメリットがあるとかそういう形から入る過程でこやつはこういう人間かという芯の部分を見出し、それで初めて共感のあるナシが生まれるもん。

好きも嫌うも本来自由なのに、義務的に「好き」の選択肢しか持たずに近づかれたら、選択の自由がないという時点で困っちゃうもんである。

Case2 繋がっていることそれ自体を自分の価値と勘違いしてしまう場合

「あの〇〇と一緒になったことがあるんだよ」へぇ〜!すごいじゃん〜!という話題はよくあることだろう。

僕も小学校の頃、実はソフトバンクホークスの上林誠知選手と同じ野球少年団に属していた。

それ自体は、適度にはいい。
話題を作るとか、はじめましての人で共通の知人を出すことでラポールの形成に活用するという時には、すごく効果的ではある。

不幸なのは、それを自分のアイデンティティの核、時に権威性や承認の手段としてしまうことである。
(今回のしんどいコミュニケーションはまさにこれ)

それはあなたという人間の外殻の構成要素の1%に満たない程度だ。
その話題を延々と出されることで、虚栄の外殻ばかりがますます張られていき、核から遠ざかっていく。

コミュニケーションが終わって、結局あんた誰?あの会話なんだったんだろ?ということになる。

どちらもコミュニケーションのキャッチボールとしては大暴投もんだ。

あくまで関係性ができるのはその人を知った上で生まれる後天的なものだということを知らぬが故に起きることを肝に銘じておこうね!

それでもなお共同体に属することの意味

距離感のたしなみを心得た上で、共同体に属することをおすすめしたい。

職場での部長としてのキッチリ自分、一人ぼっちでのだらしない自分、Aさんといる時の砕けた自分、凝り性な趣味の自分、
学生時代のサークルでのお笑い担当の自分。

社会的生き物である人間は、複数の人格を使い分ける。
(「分人主義」という概念があるので気になる人は調べてみて)

共同体というものの中で、肩書きだったり、関係性の中で生まれるものでもあったり。少なくとも人は役割(ロール)を持つ。

自己を多面体的に持っておくことは、ある一つのロールでの緊張状態をほぐすことに一役買う。
例えば仕事でうまくいかなくても趣味で発散をしたり、旧友にちょっと愚痴を吐いたり。

この自己が多面体であればあるほどメリットは多い。
多様な経験から別面体の自己活動においていいひらめきを産んでくれたり、時に「逃げ場」として作用したり仕事に繋がったり、異なる文化・価値観に触れることで自分を俯瞰して認知するきっかけを産んでくてたり。

あまり増やしすぎてとっ散らかるのも考え物ではあるが、自己と精神を健全に保つためには共同体に属することも、この時代、いいんじゃなかろうか。

何か日常に閉塞感を感じていたり、新たなことに踏み出してみたいということであれば、新たなところにダイブしてみよう。くれぐれも距離感はわきまえた上でね。

それではみなさん、いい共同体ライフを。

最後に自分が属しているものをいくつか紹介して終わる

そういうお前はどうなんだ!という声も聞こえてきたので、そこんところを記して終わる。

会社と地域

東日本大震災・原子力災害で避難指示区域になり、人口・経済もゼロリセットされたまち福島県南相馬市の小高区。
地域課題を事業創出により解決する会社「小高ワーカーズベース」にて働いてます。
そこが運営する小高パイオニアヴィレッジというコワーキング/宿泊施設には、フロンティアスピリッツに共感した人が集ってきて、緩やかなコミュニティが生まれています。

学生時代のサークル

大学時代はハンドボールサークルにいた。
結構ワイルドなメンバーが揃っていたのでなかなか大変だった。けど、苦楽も酒でのぶっつぶれも夜明けの高田馬場の地獄絵図も共有した先輩後輩同期との絆、あの時間はプライスレス。
今も気のおけない仲間として、たまに飲んだりしてる。

3キャリアプログラム

地方の経営者直下のポストで新卒・第二新卒が働くことで、経営人材の育成x地方の競争力ある企業の成長の両立を目指すVentureforJapan。
これをきっかけに僕は今の地域・会社にきた。(僕は2期生)
ポジションや年齢、属する会社地域ともにバラバラではあるものの、ここも同じ志を共有する仲間として、切磋琢磨し合える関係性。

○学園 エンジョイ!死生学研究会

オンラインのスクール。といってもガチガチなものではなく、言語から文化まで、月額2000円で自由なカリキュラムを履修していくというもの。
3ヶ月限定ではあるが、死生学を研究するゼミに飛び込んでみてる。

コミュニティのカレッジ

春ごろから、コミュニティマネジャーとしての研鑽のために入ったもの。
以前誘われたコミュニティ運営者同志のトークセッションにて、普段コミュニティに携わる人同士での共通言語があった上で議論することの刺激がすごかったので、迷いなく入った。

値段は¥5000/月とそれなりだが、その分ビッグゲストを運営の方達がアサインできたり、それなりの本気度ある人たちがさらなる探求を求めて入ってきているという意味で、質が高い。




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