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「太陽王」 ルイ14世とバレエ


前回の記事では、
イタリア生まれのバレエをフランスにもたらしたヒロイン
カトリーヌ・ド・メディシス
の紹介をしました。


その後、"フランスで開花した"  バレエはどのように発展を遂げて行ったのか、
今日はその立役者を見ていきたいと思います。

それではスタート!!




バレエを愛し、バレエに愛された王様


ルイ14世


そう聞いて、パッと頭に最初に浮かぶものはなんでしょうか??

ルイ14世 〈https://ameblo.jp/harry993/entry-11922463186.html より引用〉


かの有名なヴェルサイユ宮殿を建てた人物として知られていることかと思います。

ベルサイユ宮殿〈https://www.travelbook.co.jp/topic/2988 より引用〉


実はルイ14世は、バレエを奨励し、そして自らもバレエの名人だったと言われております。
王が自ら踊るのが珍しかった時代に、なぜ彼はそこまでバレエに熱を注ぎ、
その背景には何があったのでしょうか??



わずか4歳で王位を継承


ルイ14世は、
父であるルイ13世が逝去した後、わずか4歳で王位を継承することになりました。
(世襲制のため)

実の父との死別はたいそう悲しかったことと思います。

まだ子供だったルイ14世は、政治にまつわる実際の仕事は難しいので、
周りの宰相ジュール・マザランらが絶対王政の世を支えていました。

そのおかげもあってルイ14世はバレエに熱中できたと言われております。


ダンサーデビューした王様


ルイ14世はどんどんバレエにハマっていき、
1651年 13歳の時に初めて舞台に立ち、
1653年 15歳の時、『夜のバレエ』という作品の曙(太陽、アポロ)役で初主役を迎えます。

それゆえ、ルイ14世は
太陽王
としても人々から親しまれていました。
(彼は「自分は神に選ばれた王である」ことを信じており、ギリシャ太陽神アポロンに自分を重ね、自ら周りの人々に「太陽王」と呼ばせていた説もあります。)


曙役のルイ14世〈https://www.pinterest.jp/pin/481463016400610274/ より引用〉


わかりやすい表現として、「ダンサーデビュー」という言葉を使いましたが、
職業としてのダンサーは当時はまだ生まれていませんでした。

まだこの当時は、宮廷バレエの時代で、
バレエはペイジェント=催し物式典という認識でした。

ここからは、彼のデビュー作『夜のバレエ』とその作者についてまとめていきます。


夜のバレエ


1653年2月23日、
プチ・ブルボン宮のホールにて初上演。

絶対王政を浸透させ、国王の権力を、パリ市民、そして諸外国の代表に知らしめるために宰相マザランが企画したのが「夜のバレエ」でした。


台本、演出、音楽、共にルイ14世を讃えるためだけに作られた作品
ストーリーはなく、夜の移り変わりやさまざまな景色を描いた。
四部にわたり前夜祭に始まり、
最後に曙(のぼる太陽)としてルイ14世が登場して幕となる。

ちなみに、ルイ14世の登場シーンは、目が眩むほどの強い光が演出に使われたそう…
まさしく神々しい登場といった感じですかね笑

そして四部に渡る前夜祭は、四夜に分けて上演されたこともあったみたいです。
一夜で全て上演する場合の上演時間は、
12時間 にも渡ったそうな。
いや、流石に長すぎ。笑


ルイ14世の他にも約60名ほどのダンサーが出演し、43のミニバレエを披露したみたいです。
音楽に関しては、正確な記録が残ってないみたいです。


セット、演出、上演時間、
全てひっくるめて、ルイ14世の権力と偉大さを見せつけるためのものですから、
そりゃさぞ凄かったことでしょう。


観客のうち、どれくらいの人が一睡もせず最初から最後まで観劇したのか
個人的にはそこが気になります!!笑



↑こちらは、『王は踊る』という映画の中に出てくる『夜のバレエ』のルイ14世の登場シーンです。
『王は踊る』の映画自体は、この時代に活躍した音楽家ジャン=バティスト・リュリの生涯とルイ14世への愛を描いたものですが、
このシーンでは当時のバロック音楽と宮廷バレエの感じを味わっていただけるので、気になる方はぜひみてみてください。

私も大学の時に、先生からお借りしてみたことある映画でしたが、
宮廷バレエ時代の舞台機構や、衣裳、音楽なども味わえてあっという間に見終わってしまいました。


ジャン=バティスト・リュリは次回noteで登場予定です!


バレエが貴族たちにもたらしたもの

ルイ14世とバレエの関係については先述しましたが、
周りの貴族とバレエの関係はどのようなものだったのでしょうか??

当時16世紀後半のフランスでは、
絶対王政
が採用されていました。

なぜそうなったのかというと、
ルイ14世が10歳のとき、王室に不満をもった貴族たちの反乱がおきました。
反乱軍はパリを包囲し王宮内にいたルイ14世の寝室まで侵入、彼はパリから一時的に避難を余儀なくされました。(フロンドの乱と呼ばれています。)
幼い王にとって相当な衝撃であったのか、
1652年14歳で戻ったときは別人のようであり、自分の部下を含めてすべてを疑うようになりました。

「陳は国家なり」というあの言葉は、
自分のやることがフランスの全てを決めることを印象付けるためでした。



バレエが義務になった宮廷

当時のバレエは礼儀作法としての貴族のたしなみだったと、このnoteに何度か出てきているとおもいますが、
ルイ14世はバレエを利用しようと考えました。

その裏には、
「貴族たちが事細かなエチケット (礼儀) に気を取られていたら王室を打倒する暇がない」
という考えがあったからだと言われています。

さらに、ルイ14世は、自身が優れたバレエダンサーであり、バレエが大好きだったことから、
バレエは宮廷において最も重要なエチケットの一つになりました、



出世したいなら、踊れる必要あり
まさにこれです。



ルイ14世は
貴族たちに、12 以上の踊りをマスターすることを義務づけました。

その多さと、複雑さを考えると、
貴族たちは、かなりのエネルギーをダンスに割く必要がありました。


今では考えられない政治方法ですが、
そのおかげで、フランスが高い文化の中心であること
をヨーロッパの諸外国へ示す手段でもあったのです。


ちなみに、
貴族の神経を疲れさせる手段としてもう一つ使われたのが
ヴェルサイユ宮殿
でした。

ベルサイユ宮殿内部〈https://interior-no-nantalca.com/baroque-history/hall-of-mirrors-palace-versailles-france/ より引用〉

内部は精巧に作り込まれていて、非常に複雑で、
なおかつ、貴族と女性はどこに立つことができて、部屋の出入りの方法、さらにはどの椅子に座れるのかなどさまざまなことが制限されていたみたいです。

別名、
「黄金の刑務所」

そこに、貴族たちを呼び寄せ、留まらせることを強制し、
さらには、12以上の踊りをマスターするために神経をすり減らさせるなんて、
まさに優しい顔した悪魔ですね。

もはや、優しい顔すらしていなかったかもしれません。笑

まとめ

今回はルイ14世とバレエの関係、
さらに彼の主役デビュー作『夜のバレエ』
についてまとめてみました。

バレエは崇高なものだと考えていましたが、
政治に使うこともできるんですね…
まさに一国のリーダーによって国の文化すら変えられることを体現した王だったと思います。

次回は、
ルイ14世が、後のバレエ界にもたらした功績について書いてみたいと思います。

バレエを後世にしっかり受け継いでいくために太陽王は何をしたのか…!!


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