つくるということ

1 

 とあるきっかけで、ある音楽家の文章に触れることになった。そこで「おお、やっぱりそうだよなあ」という感想を持った。
 具体的にはこれ。

“「やりたい」「作りたい」ってのはそんな小細工な考えとは全然違うところにある気がする。だから「活動再開の動機は?」と聞かれても「作りたくなったから」としか言いようがないし、何で作りたくなったの?と聞かれれば「わがんね」としか答えようがない。じゃあいま作ってて楽しい?と聞かれると「楽しくねーよボケブッ殺。。。ブッコロリ!」てなもんです。 楽しいとか楽しくないとかで止められる衝動ではないということですな。”

 私はこの人のような有名人ではないし、当然私が作るものの質も比較にならないほど低い。けれど、作る人間として言いたいことはものすごくよくわかる。
 作ることは「楽しい」こととは違う。そうしないといけないという衝動というか、いわく言い難い何ものかが制作の動機だ。作っている間も「楽しい」という感情があるわけでは、必ずしもない。

 だから、極端なことを言えば、音楽を作ることは楽しくはない。喜びでもない。
 「そうしなければならない」というのが、心や頭の動きの言語化として最も具合がいいものだと思う。無論、近似値にすぎないけれど。


 僕は一応、愛好家としてジャズという音楽をしている。「一応」というのは、コアなジャズファンやミュージシャンからすると「てめえのやってることなんてジャズとは言えねえんだよクソが」となじられても文句を言えないレベルでしかないからだ。要するにエクスキューズだと思ってくれればいい。

 で、ジャズという音楽は、20世紀初頭のアメリカはニューオーリンズを発端とすると言われている。労働力として強制的に連れてこられた黒人たちがその主な担い手だったとも。だから、ジャズの歴史を語るなら、奴隷制だの差別だのの悲劇的な側面をどうしても視野から外すわけにはいかない、とも。
 だから、当時の黒人たちの心情に、時折思いをはせることになる。彼らは食っていくために、やむなく軍楽隊のお古の楽器でダンス音楽を奏でていただろう。あるいは、日々の労働や生活の苦労を音楽で紛らわせていたかもしれない。そのときの心の中はどんなものだったか。純粋に楽しんで音楽をしていたのだろうか。もちろん、紛らわすのが音楽なら、そこに快楽はあったのかもしれない。でも、同時にそこには悲しみに近い感情が否応なく紛れ込んでいたんじゃないのか。


 今の自分自身も、それに近い状態で音楽をしていると言っていい。いやもちろん、ジャズの黎明期にそれを担った人たちと自分を等しい位置に置くなど、おこがましいにも程があるのは承知している。それでも、動機としては近い部分があるのは間違いない。

 だって、音楽をしていることで、自分は正気に戻れるのだから。
 世の中には優れた技術と識見を持った人たちが大勢いて、自分にはまだまだやらなくてはならないことがあることを知る。自分と同じように、自分の技術を高めるために、あるいは純粋な趣味や娯楽として音楽に触れる人がたくさんいることを知り、そういう人たちがいることに励まされ、自分が音楽をすることは「罪」ではないと赦しを得る。自分にはやりたいことが、そしてそのためにやらなくてはならないことがまだまだあると自覚し、そのことに真摯になれる。
 世界から色彩がなくなり、世界を肯定できなくなっている自分は、こうして音楽の世界に動機づけられ、音楽と向き合うことでようやく正気を保っている。
 それは「楽しい」のとは違う。快楽によって現実の苦しさを一時的に忘れているとか、そういうものとは全く違うのだ。一種の現実逃避ではあるかもしれないが、楽しさに向かって逃避しているのでは全くない。「そうする以外に術が見つからない」という表現が適切だろう。


 かつて、自分自身でここに書いたことだが、芸術って純粋な快楽ではないと思っている。むしろ、日々の生活の中で感じた「何かわかんないけど刺さったりざわっとしたりするもの」に、形を与えて理解できるようにすることこそが芸術なんじゃないかと思っている。

だから、作ることは「楽しい」とは一線を画す。「悲しい」ですら正確とは言えないだろう。もっと複雑なもので、だから簡単に言葉にできない。その言葉にできないものを形にして理解できるようにしていくのが「つくる」ということだと思っている。
 だから、音楽を、そして芸術を「楽しい」と言い切ってしまうことには抵抗がある。そして「楽しくないもの」に価値を見出さない態度も、肯定することができない。

 ものをつくることは、生きることだ。だから、楽しいだけではすまない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?