本の何が良いのか

メディアの多様化と本

現代は随分にメディアが多様化し、結果として娯楽と呼ばれるものの勢力図も日々変化に絶えない。
スマート化と言うべきか、とかく主流化するのは手早く快感を得られるもの。数年前は切り抜き動画もここまで流行っていなかったはずだ。テレビで時折放映されるダイジェスト版にがっかりしていたあの頃が懐かしい。
通勤の電車内では、スマホでアニメやネット記事を見る人が多いし、はたまたファスト映画なるものも流行る昨今だ。もはや忙しい現代人は、娯楽にまで効率性を求めるようになったと思うと、不安な気持ちも多少は湧く。
そして読書はというと、本質的には全くもって効率的な手段ではない。ということは、三宅香帆氏の近著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で指摘されていることだが、本はどちらかというと求めていること一直線に進まない、ノイズに満ちたものなのだ。転じて、本来読書はノイズというか、求めていることとは異なる大いなる蛇行に享楽を感じるための行為だったのではないか。その意味で、「10分で分かる」など簡明化するのは、少なくとも本質的ではない。その類のことはYouTubeやTik Tokの方が得意だ。
では、便利な現代で敢えて本を読むのはなぜか。それは、簡素にできないが故にインスタントではない愉しみを得られる媒体だからだ。

本を楽しむことは複雑なものを読む方が分かりやすい

文庫化された『百年の孤独』はたちまち増版ものとなった。この書はページ数も多い上に、登場人物の整理も骨が折れる。結果として、私も早々と読み切るつもりがまだ中盤ほどである。多くの人々が『百年の孤独』を求めている。この複雑怪奇な世界に入り浸り、書の中の謎を諸々に解釈しながら迷い歩く、そういった答え一直線ではない没頭から得られる享楽への信頼が故であると思う。
読み終えてもない本を例に出すのは失敗だったかもしれない。だが、半分読んだところでも『百年の孤独』は本の楽しさを伝える好例だと感じている。別にそれは長さ故ではない。要するに、没頭を許すだけの複雑さがあるか否かだ。
絵本にしても優れたものは、子供に解釈の逡巡を与え、いつまでも取り憑かれたようにその世界に迷い込むことを誘う。文字や絵の連なりに一対一で向かう。孤独な時間が無ければ本は読めない。(少なくとも読む行為には孤独が必要だ。)あてもなく難解なものを解き明かそうとするスリリングさが読書の醍醐味だ。
そういうわけで『百年の孤独』がこれだけ売れているのは一つの希望に思えた。ファスト化する社会から、複雑な享楽を取り戻すのに本は枢要な役割を果たすと直感している。一字違いだがマルクス再ブームで『資本論』が売れるのも、ファスト化からの揺り戻しなのかもしれない。

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