韓国のコンテンポラリー写真事情 ― 2010年代を中心に:写真以降(2)仮に平らだとすれば 文:紺野優希

韓国のコンテンポラリー写真事情 ― 2010年代を中心に:写真以降
#0 はじめに
#1 イメージと画像の狭間で
#2 仮に平らだとすれば 
#3 ひょっとすると、ロマンチックは抜け殻

プリントに限らず(幅広い意味での)「印画」は、写真を平らなメディウムとして限定させる。しかしながら、結果としては平らであったとしても、そこには様々な変数が生じる。プログラムで編集した過程、フラットさを意識した演出、そしてプリントしたものをスペースに展開する仕方など、それぞれ平らなメディウムという共通点に様々な違いが存在する。ここでは、メディウムや形式のアプローチだけでなく、いかに私たちが作品を理解するのかについて紹介する。
(シン・ジヘ、ムン・ヒョンジョ、パク・フィジャ、キムパク・ヒョンジョン、キム・キョンテ、ジ・ヨンイル、オ・ヨンジン)


1.平面から平面へ

シン・ジヘの個展《seize on》(DimensionVariable、2019)の出品作は、インスタグラムでシェアされた画像を参考にし、そのシーンを作り、撮影を行ったものである。それは、プログラムのような仮想空間ではなく、実際の空間で構築されたものだ。その際に、単調な色彩と形に抑えることで、構造の情報を単純化させ記録している。奥行きの失われた構造は、作品には厚みのないまま、平面的に記録されている。平面的な記録は、写真における一般的な特徴と言えよう。フィルムや印刷用紙といった一枚の紙には、対象の厚みやボリュームなどが、水平に置かれることとなる。それは視覚的な像を留めたまでであって、被写体の実物そのものではない。シン・ジヘの作品にも、この特徴はあらわれている。だが、彼女の作品で興味深いところは、平面から平面に移行している点である。アーティストが参考にした元の画像は、画像であって、被写体そのものではない。元の画像に残されている視覚的な像を参考にしながら、面として場面を組み立て、最後また写真という平面に記録する。よって、平面としての情報を、作品に平面的に組み立てることで、写真の性質、つまり平面性を露わにしている。

1.シン・ジヘ

シン・ジヘ〈flat cube〉, 150x112cm, inkjet print, 2019(写真提供:Shin Jihye)

ここで平面性とは、ただ単に平らな状態(flatness)を意味するわけではない。むしろ、平らになった・ぺしゃんこになった結果(flattenedness)と言いたい。後者に注目することによって、同じ平面作品であるペインティングと、差異化が図れるだろう。ペインティングと写真は共に平面作品という点で共通している。しかしながら、両者のアプローチは、それぞれ異なっている。前者の場合、対象は支持体に「追加」されることで生まれ・現れ、後者の場合、対象は支持体へ「統合」される。ペインティングにおける支持体――キャンバス、壁、仮想のディスプレイ (*1) ――は先に与えられており、そこへ絵具やインクを介して表現する対象が描かれている。そのとき対象は、支持体へ表現材料が付け加えられることで生れる存在である。一方写真の場合、そこには「かつてより」対象が存在している。写真へと残されたものは、ある対象を移送した結果であり、それは一から描かれるペインティングとは、異なる記録方法である。

ロザリンド・クラウスが述べるように、ペインティングとは異なり、写真は支持体の中(in)にイメージを記録する (*2) 。このような点を踏まえると、ペインティングと写真では後者のほうが平面的である。というのも、印刷された紙には、ボリュームを持って画材が付け足されることも、絵具から新たな像がそこに描かれることもないからだ。しかしながら、メディウムそれぞれの属性は、今日において、両者の関係性ははっきりと分割されるものとも言い難い。写真とペインティングが対象を表現する方法は、コンピューターやiPad、スマートフォンといった仮想空間において中間色を帯びることとなる。絵を描く行為は、出力というプロセスを経ることもある。また写真は、切り取りや貼り付け、加工やタッチの介入をカーソルやペンタブレットで加えることによって、対象へ手を加えることにもなった。両者はデータという記録・保存方法によって、画面上の中継地において、追加と統合を共に可能なものとさせる。ムン・ヒョンジョの作品は、そのような意味でインポートの結果として出力された作品と言える。彼の作品には、複数の――編集されたものも含んだ――画像やプログラムで描かれたペンのタッチなどが見て取れる。

2.ムン・ヒョンジョ

ムン・ヒョンジョ〈Captures〉60x40cm, 2019(写真提供:Hyungjo Moon)


2.平面と周辺部へ

そのような要素が追加され、作品の内に統合された姿として、作品は表れている。ここで興味深いのは、彼の作品に登場する「入れ子の構造」である。作品は、別の画像がコラージュされることで、一つの場面を構成していない。カジミール・マレーヴィチの〈White on White〉(1918)が、キャンバスという下地を浮かび上がらせたのであれば、ブラウザやスマート機器の画面という外枠をモチーフとして浮かび上がらせている。更には、統合・追加され、ぺしゃんこに収められる場としてのスクリーンを、作品によって枠付けしている。シン・ジヘの作品で記録される対象――つまり、面として際立った構造物――が、写真というメディウムの平面に向かっているのに対し、ムン・ヒョンジョの作品は、スクリーンという統合・追加の場が、作品という平面に向かっている。そこには、記録される対象を作り、並べる時間を経ながら統合-記録された、中継地の姿として現れる。両者に共通する平面、つまりぺしゃんこになった場への関心は、互いに異なる密度を含んでいる。シン・ジヘの作品が瞬間の内にのっぺり収められることに意識が向いている――元の画像を見たアーティストの反応がそうであるように――のに対して、ムン・ヒョンジョは、作品というフレームを介して異なる要素を配置・統合することで、画面-中継地の時間性(duration)を作品に含んでいる。

3.パク・フィジャ

パク・フィジャ〈ザセカンドスタジオ〉(2019)展示記録写真(写真提供:BAHC Heeza)

入れ子の構造は、パク・フィジャの作品においても重要な位置づけとなる。しかしながら、彼女の作品は、統合や追加が行われる画面上の中継地ではなく、インスタレーションとして実空間で展開される。〈ザセカンドスタジオ〉(2019)と名付けられた作品は、撮影現場の機材を記録し、インスタレーションとして展開したものである。この作品は、対象化された道具が、改めて会場にインストールされることで、実空間に錯覚を呼び起こしている。だが、それだけがポイントではない。むしろ、撮影したカットが事物として具現化される点で写真のカットというフレームを浮き彫りにしている点がポイントである。作品で表象された道具は、撮影時にスタジオで使用する際の関わり方ではなく、別の実空間でディスプレイ=フレームを介して再配置されることで、改めて写真のカットが浮き彫りにされる。ムン・ヒョンジョが統合された平面として表すのに対し、パク・フィジャの作品ではフレームは物理的なインスタレーションを介することで視点とカットの範疇を明らかにし、実空間で視点を複数化させている。それはプログラムでの統合と追加とは異なるものとして、平面を取り巻くインスタレーションを介して構成される。

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