韓国のコンテンポラリー写真事情 ― 2010年代を中心に:写真以降(1)イメージと画像の狭間で 文:紺野優希

韓国のコンテンポラリー写真事情 ― 2010年代を中心に:写真以降
#0 はじめに
#1 イメージと画像の狭間で
#2 仮に平らだとすれば 
#3 ひょっとすると、ロマンチックは抜け殻


韓国語で画像検索は「イメージ検索」と言われる。検索エンジンを使ってお望みの画像を見つける現状を、よく表している言葉だろう。今日において写真は、撮るだけでなくネット上で探したり、SNSで出回るスクリーンショットだったり、ネットショッピングのよく撮れた画像でもある。理想的な「イメージ」と単なる記録である「画像」は、今日においてどのように捉えられるのか。ここでは、理想図(イメージ)と記録(画像)と写真芸術について、話を展開する。
(キム・チョンス、ホン・ジンフォン、CO/EX、バク・ドンギュン)


1. イメージ・画像の結合体としての写真

ここに看板がある。ある被写体を写した写真と、その被写体と関係のある情報が文章で書かれ、ひとつのデザインとなっている。例えばケーキ屋さんの看板だとしよう。そこには美味しそうなケーキの写真と、商品やお店の位置情報が文章で綴られている。しかし私が注目したいのは、視覚的情報源そのものでもなければ、それに付随する情報そのものでもない――私はケーキ職人でもないし、仮にケーキを好んで食べたとしても、だ。更には、それがどこで売られていて、どのような原産地で、といった情報にも興味がない。ではなく、両者の関係性を手繰り寄せる、イメージについて分析を試みたい。このような立ち位置から言わせてもらうと、私の興味を引くのは、撮られたもの(視覚的情報源)でもなければ、それに伴う情報でもない。むしろ、画像の下のほうに書かれている次のような一文から、話を進めたい。それは「画像はイメージであり実物と異なる場合がございます」というものだ。

ここで私たちは、図像学的な分析にとどまることも、または極端に図像=画像からかけはなれることもしない。なぜ、「画像は画像である」や「イメージはイメージである」、あるいは「実物は実物である――ゆえにこれは実物ではない」といった、同じ言い回しではないのか。シンプルに言うと、画像は画像にとどまらず、イメージという異なる次元が画像に上書きされるからである。画像とイメージは実物ではないにもかかわらず、実物に、より正確には実物を認識させる上で影響を及ぼす。そこに実物は存在しない。看板のケーキはサイズ感覚はもちろん、香りも舌触りも鑑賞者には伝わらない。それは、本物のケーキそのものではない。にもかかわらず、本物のケーキの外観といった視覚情報はもちろん、興味や期待を手繰り寄せる。画像はここで、「かつてそこにあった」実物の記録を形にとどめるだけでなく、実物の存在を期待させるイメージに変わる。

この点を踏まえると、日本語と韓国語で言われる「画像検索」の「画像」という言葉は、画像とイメージの両者の関係性をつなぎとめてくれる。日本語で言う画像検索は、韓国語においてイメージ検索(이미지 검색)と表現される。写真として記録し、また検索をしながら、私たちは画像の単なる記録だけでなく、理想的な構図やカットから画像を生産したり、ハッシュタグで視聴回数を稼ぐ一方で、ベストなイメージをネット上でフィルタリングしながら探す。このように写真の生産者と受容者が比較的区別されることのない現状で、写真の位相はどのように展開されるか。ここでは画像を記録物、そしてイメージを理想図として置き換えたい。先ほどの一文に戻ってみよう。記録物は記録物である、という言い回しをすると、それは被写体そのものから遠ざけることになる。そこにはケーキそのものではなく、ケーキを象ったものしか存在しない、とでも言うように、だ。反対に、理想図は理想図と言い切る場合、そこに本物、つまりお店で売っているケーキの存在は無いことになる。イメージと画像という言葉が繋ぎとめているのは、被写体の記録という実物・実在するものの指標的な位置と、理想図として伝えられ、受け手を期待させる中間位置である。つまり、「かつて、そこに」と「きっと、そこに」を「いま、ここに」手繰り寄せる点で、画像とイメージは写真に結びついている。

「イメージ」と「画像」を区別することで、「写真」という言葉が含む、より複雑な層を明らかにすることが可能だ。イメージはイメージにとどまらず、画像は画像にとどまらない。この2つの概念は、写真に見事に密着することもあれば、離れることもある。それこそ、先に述べた看板や広告は、その密着度を一層高めることで、効果を発揮する。それは撮影当時、実物のかつてあった記録から、受け手が期待を馳せるものとして、今ここに存在するーーそして、存在していない。しかし、その密着度を切り離し、また結合する装置として、これから取り上げる写真芸術は分析できる。(*1) 期待していたものが現れていなかったり、画像の表象をもとに時間軸を水平にしたり、イメージという期待にとどまったり、このように写真芸術は、複雑な時空間軸をつなぎとめては解き放つ。


2. 取るに足らない記録として (*2)
:キム・チョンス〈アルプス〉(2013~)、ホン・ジンフォン〈赤い、緑〉(2012-2014)

キム・チョンスのシリーズ〈アルプス〉(2013~)(*3) は、何を映し出すのか。一見すると、この作品の撮影地ははっきりと判明しない。リフトに韓国語で書かれた宣伝を目にしない限り、撮影地を把握しづらく、タイトルは文字通りアルプス山脈、またはアルプス周辺にある施設と捉えられてもおかしくない。しかし、彼の作品はすべて、韓国にある「アルプス」というスキー場(以下、アルプス・スキー場)、より正確には、廃墟となったスキー場 (*4) で撮影された。当時のまま残されているリフト、廃れた看板、飾ってあったスキー場の写真を写したもの、これらは全て、韓国という地理的空間に存在している廃墟の姿である。よって、〈アルプス〉はヨーロッパ一帯ではなく、そこから派生するように作られた、韓国のとあるスキー場の記録である。

この点で、本物のアルプスとそれを模したスキー場というシミュラクル (*5) の話を思い浮かべることも可能だ。つまり――ボードリヤールが説明するように――偽物と本物の区別が不能になり、偽物が本物を上回るというように、だ。アルプスへの憧れが韓国にスキー場として実現された点で、アルプス・スキー場はかつて希望的な存在であった。しかし、それはアルプス・スキー場についての話である。〈アルプス〉でポイントになるのは、過去の遺産の記録やシミュラクルといった話ではない。そうではなく、写真は、アルプスという単語が想起させる印象、つまり「アルプスらしさ」について語っている。時空間軸を等価に、つまりアルプスと韓国のアルプス(・スキー場)、そしてかつての記録と廃墟の記録を並べることで、アルプスというイメージを象るものに、クローズアップとアウトフォーカスを行っている。作品を見ただけでは、アルプスというタイトルが本物のアルプスや韓国にあるアルプス(・スキー場)を指したところで、あまり関係がないように思えてしまう。というのも、撮影地はタイトルに反映されていないだけでなく、アルプス(のイメージ)とはかけ離れた写真も存在するからだ。枯れた植物や鳥の死体、また幾何学的なカットは、アルプス・スキー場という地理的空間には位置していても、それがアルプスというヨーロッパのとある地域の記録ではないという保障も、韓国のある地方を一時支えていたスキー場という保障もない。つまり、キム・チョンスの写真は、かつてのスキー場の記録として、また廃墟と化したアルプス・スキー場の記録としても機能しないだけでなく、アルプスらしさを表す記録としても、取るに足らない。

画像1Alps_#02,  2017

画像2Alps_#09, 2017

画像3Alps_#19, 2017

キム・チョンス〈アルプス〉より〈ALPS_#02〉〈ALPS_#09〉〈ALPS_#19〉(いずれも、2017)(写真提供:Chun Soo Kim)


では、この取るに足らない写真を前に、それでも屈強に残り続けるものはなにか。それは受け手が抱く、「アルプス」という単語に付きまとう高原のイメージだろう。作品は、地理的空間――ヨーロッパだろうと、韓国だろうと――でもなく、かつて存在したスキー場の繁栄や、現在の廃れた様子を説得力を持たせて記録したドキュメンタリー的な記録でもない。むしろ、写真に現れているのはアルプスという概念が硬化し、また劣化する姿である。写真は、かつて人々が抱いた理想図としてのスキー場が廃墟になっただけでなく、アルプスという言葉から思い起こされる理想的なイメージ――四方に広がる高原、澄んだ空気、静かに雪の積もったところ――から解き放す。裏を返せば、作品はそこにある、またはかつてあった場所の残りにくい記録として、残される――アルプスらしさは記録されない。劣化した写真の白く剥げた箇所は、スキー場の当時の記録が劣化しただけでなく、アルプスらしさ(=イメージ)を瓦解すると同時に、取るに足らない記録として残される。

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ホン・ジンフォン〈赤い、緑〉より〈浪江町、福島、日本 (*6) 〉〈平和祈念公園、沖縄、日本〉〈三坪里送電塔・篭城の地、清道、大韓民国〉(いずれも、2014)(写真提供:JINHWON HONG)


取るに足らない記録は、ホン・ジンフォンの作品において「取るに足らない」出来事の記録として現れる。〈赤い、緑〉 (*7) (2012-2014)というシリーズは、韓国の済州島、ミリャン (*8) 、そして日本の沖縄と福島を舞台に撮影を行った作品である。アーティストは、虐殺が行われた済州島、第二次世界大戦中に過酷な戦闘が行われた沖縄、伐採が行われ、原子力発電所に続く鉄塔が建てられたミリャン、そして原子力発電所の被害を受けた福島を訪れ、その地で撮影を行った。キム・チョンスの〈アルプス〉とは異なり、彼の作品には撮影地がタイトルに反映されている。しかしながら、場所は記録された場所としてのみ写真に収められ、ランドマークのような象徴性を露わにしていない。言ってしまえば、写真に収められた現場は事件性を象徴していない。第一にそれは、出来事が起こった当時の姿を捉えていないからである。写真には戦闘や災害といった具体的な出来事は記録されていない。それに変わり、〈赤い、緑〉には植物や草の姿が一貫して写っている。

4つの場所で国家(日本・韓国)がそれぞれ下した決断は、作品には出来事として具体的に現れていない。だからといって、彼の写真に写っている植物が出来事そのものを表象することもない。重要なのは、出来事に左右されることなく、植物はそのまま育っているという点である。写真には枯れている植物、鬱蒼とした森、背の低い笹などが写っているが、そのどれもは事件とも、また事件・出来事が起こる前と起こった後にも関係なく育っている姿として写される。〈赤い、緑〉において、植物は出来事を表象せず、出来事を表象することとはなにかと問いかける。そこに写っている植物は、具体的な出来事を表象するわけでもなく、ただそこにある。よって、彼の作品に写っているのはある場所やある出来事ではなく、それらが抜け落ちた記録である。写真は、特定の出来事を象徴するわけではないが、だからといって無関係な場所ではない。かつて起こった出来事の時空間に置かれていたが、写真には出来事の時間軸は消え失せている。むしろ、かつてから続く時間軸に置かれている植物の姿を捉えている。少なくともその姿は、植物の時間ではなくかつての時間、つまり出来事が起こる前の時間軸として、受け入れられるだろう。

その意味では、〈赤い、緑〉は現在の記録と言えるだろう。過去の出来事を、未来に向かって残すという意味での現場ではなく、かつてそうだった時の延長線上に置かれている現在として、捉えられている。過去より続く現在の記録は、その途中に発生した出来事を時間軸から追いやって、写真に自然な姿で現れる。それにより出来事は根本的に伝達不可能なものとして扱われる。〈アルプス〉が見る者の期待、つまり「アルプスらしさ」によって支えられることで、記録とイメージの乖離を浮き彫りにする。一方〈赤い、緑〉は、出来事へのイメージが記録の外へ追いやられている。作品は共に、対象や出来事が写真で伝達不可能になる境地へ、鑑賞者を遠ざける。


3.「かつてそこに」と「きっとあそこに」の地平で
:CO/EX〈Charlie Oscar/Echo X-ray〉、VDK Generic Images

このように、見る者の期待は、写真の外に取り残される。一方では「アルプスらしさ」というイメージに、他方では「かつて起こった出来事」として過去の時間軸にとどまることになる。この期待は、今日において画像検索をはじめ、多くの画像を選ぶ際にも当てはまる。より積極的に、自分のもつイメージと画像を近づけるのに有効である。新着順、ハッシュタグ別、ミュート、画素数と色調の設定及び指定・・・検索ワードをはじめ、フィルタリング機能は、望んでいた画像(=イメージ)に歩み寄ることを可能にする。その時、見る者の期待は、見つける者の期待へと変わる。つまり画像検索において写真は、ユーザーという立場から、イメージに結合される。また他方で、画像提供側、つまり画像をオンラインにアップロードするユーザーが、アクセスしやすいように仕向ける戦略と歩調を合わせている。SNSやブログの投稿にハッシュタグをつけることは、リーチ数とアクセス数を増やす上で、重要な情報源となる。このようにして、画像へのアクセスは、双方から条件付けられる。

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