韓国のコンテンポラリー写真事情 ― 2010年代を中心に:写真以降(3)ひょっとすると、ロマンチックは抜け殻 文:紺野優希
韓国のコンテンポラリー写真事情 ― 2010年代を中心に:写真以降
#0 はじめに
#1 イメージと画像の狭間で
#2 仮に平らだとすれば
#3 ひょっとすると、ロマンチックは抜け殻
映像作品や写真という媒体は、自明な記録と言われるが、果たして何が自明なのだろうか?どこで撮って、どんな経験をして、何を表しているのだろうか。写真に捉えられたシーンや場面は、どこかロマンチックに映し出される。しかしそのとき覚える郷愁や浪漫は、果てしなく埋められない距離感として表現される。ここでは、記録をモチーフにしたアーティストの作品を参照にしながら、話を展開していく。
1.生き生きした写真
もし写真が「ロマンチック」に映るのであれば、それはきっと時空間の差のおかげだろう。かつて、そこに、今ここではないかつて、そこにあったものと出会うとき、私たちはそれを一枚の虚しい紙にしかすぎない、でも(それゆえ)より愛おしいものとして感じ取る。流行、ある場所や時代の一時を象るフレームとして、写真はロマンや郷愁と結びつく。しかしどうだろう。少なくとも、今現在インスタグラムの正方形やスクリーンショット、フィルターが適用された画像は、現在という時間軸に限りなく近い――YouTubeにアップロードされたブラウン管画面のサイズなどは、その点まだ懐かしさを感じさせているのに対して、だ。写真というメディアによる露出速度は――時に写真とは言い切れないもの、つまり「イメージ」として名前を変えながら――、近年加速の一方を辿っている。初期写真において動かないように被写体となる対象を固定し続けたこと、ネガの印画やプリントというプロセス、録画放送やライブ配信、記録とアップを同時に行うSNSのフリートやストーリーに至るまで、像を写す移すスピードを上げてきた。
とりわけ、スマートフォンの持ち運びやすさと写真のデータ化、更には保存場所のクラウド化は、素早く軽い身のこなしによって、個々の経験をSNSというプラットフォームに同期させることが可能になった。現在の時空間が送出可能な時代において、メディアは文字通り「触れる」感覚に近いものとなった――たった今、目の前にあるような存在感を放ちながら、我々の前にイメージは立ち現れる。しかし、リアルタイムにおけるイメージは、生き生きしているという感覚とは必ずしも直結している訳ではない。というのも、イメージにおけるバイタリティは、そこに存在しないものであるが故に、受け手に授けられるからだ。過去の記録として残っていたものが、突如意味を見いだされ、評価されるものとして考えられたとき――写実的か、(ペインティングのように)そうでないかに拘らず――イメージは、はじめて生き生きとしている。逆に言うと、それらのイメージは、基本的に取るに足らないものである。ライブ配信やビデオ通話のように、現前することが容易になった今日、イメージはありのままの写しとして受け入れられる。リアルタイムとこれまでのイメージのあり方では、時制の到来の仕方が異なっている。リアルタイムで到来する時空間は、限り無く現在に近いのに対し、これまでのイメージのあり方は、距離感そのものを測らない内に受け手のもとにやってくる。
ムン・イサク 《分身術:徐市過此》(factory2、2019.12.24-2020.1.13.)、展示のアカウント(@clone_tecnique)にリポストされた筆者の投稿
取るに足らないイメージは、逸話的な語り口によって期待と憧れを与えられ、その結果生き生きとする。逆に言うと、今日においてイメージは、逸話的な語り口によって、体験記と化し、それによって生き生きすることになる。ムン・イサクの個展《分身術:徐市過此》(Factory 2、2019)では、不老草をモチーフにしながら、逸話が対象に価値を与える過程を描いている。観客は、会場で見つけられる不老草(オブジェ)を写真に収めたものを、インスタグラムに写真をアップするよう、案内を受ける。アーティストは、観客が会場で撮った写真を(許可のもと)集め、図録として刊行した (*1) 。不老草が逸話によって語り継がれ、また逸話的に描写されることで特別なものに見えるのと同様に、ユーザー別に残された会場の写真もまた、不老草を逸話的に象る。会場が比較的小さいこともあり、結果的に、写真は一つの会場を記録した僅かなバリエーションにすぎない。しかしながら、これらのイメージはそれぞれ別の鑑賞者によって撮影された点では異なる次元に属している。これらの写真に違い=真新しさを与えるのは、「展示を見た」という逸話的で経験的な語り口だろう。
2.骨(として)のイメージ:肉でありながら、他方で肉づけられないもの
個々の次元において、写真という記録の自明性は、かつてそこにあった以上のものとして、経験づけられる。しかし同時に、経験づけられないイメージは、大量の堆積物、いわば個々の記憶や経験から抜け落ちたものとして、貯蔵される。ムン・イサクの個展《分身術:徐市過此》も、そういった意味では、取るに足らないイメージとして、無数に広げられている。パク・ソンホの作品〈Stain-2: Hard and Soft〉(2019)で、生き生きしたイメージは、化石としての写真と対を成すもの、しかしながら交差するものとして描かれる。博物館でこっそり撮った(がブレてしまった)写真と、残したスケッチとメモは、冒頭のハードディスクに無数に保存されたいつしかの画像と共鳴する。はっきりと残された画像だからといって、思い出や記憶をそっくりそのまま伝えたり、逆に手振れ補正できなかった画像が、なんら表しえないものとして、無価値なものでもないことを、表している。化石がそうであるように、写真も残った骨のようなものである。骨として形が残っていれば、かつての生命体を思い起こしやすいだけでなく、骨がまばらにしか残ってない理由で、その存在が否定されることがあってはならない。
パク・ソンホ〈Stain-2: Hard and Soft〉(2019)/作者提供
生き生きしたイメージ、それは、はっきり残された記録によって全的に支えられる訳でもなければ、取るに足らない画像だからという理由で、全否定される訳でもない。むしろ、今ここにありながらも、かつてそこにあったものが移送されることで、過去と今の時空間の拮抗関係の中に、イメージのバイタリティは生れる。今目の前にあるモノや画像そのものとして信じ込まず、互いに異なる時空間が居座る場として受け手と結び付けられ、今ここにいながら今ここを引き裂かれる経験こそが、イメージを生き生きさせる。化石が意図せずして21世紀の私たちに届けられたように、イメージもまた想定外の者へとたどり着いては、解釈を求められる。この解釈によって、過去と未来はイメージを見る今へと取り集められ、生き生きしたものとして映し出される。それは、過去を受け手の正面に引き摺ってくるだけでなく、未来に向けて開かれている。チャン・ソヨンの映像作品〈YOUR DELIVERY〉(2019)では、イメージがやってくる時間軸を様々に見せている。作中に登場する、会場に設置されたオブジェの断面図や、現像中のポラロイドカメラ、映像で語られる遺伝や出産にまつわる話しで、イメージが露わになる時間は、それぞれ異なっている。
チャン・ソヨン〈YOUR DELIVERY〉(2019)/写真提供:MMCA, KOREA
今の姿が、過去のものや未来のものとして移送、つまり「異送」される点は、作中のモチーフに共通している。作中、ポラロイドカメラの像として強調される「かつて」と「そこに」は、受け手との時間的距離感を前提としている反面、断面図の記録はスキャンのように、はっきりしている。しかしながら、断面図の内部は基本的に我々の眼に映ることはない、空間的距離感として表れる。〈YOUR DELIVERY〉では、時空間の隔たりが、互いに向かい合って、一致することがないものとして描かれる。それは、イメージと受け手の場合にも同様である。写真をはじめ視覚の記録は、想定していない受け手に向かっている。それは、パク・ソンホの作品に表れるように、かつての自分と今の自分との隔たり、つまり「記憶」の問題に限ったことではない。チャン・ソヨンの作品で手紙の受け手の名前が変わっていくように、イメージは、いつかの誰かに向けられている。イ・ソウィの作品〈Off Sight〉(2019)では、記憶やおしゃべりの内容が抜け落ちてしまうことによって、受け手=鑑賞者に記憶を描かせる。この映像作品とインスタグラムのアカウント(@offsight_offsight)にアップされた記録は、抜け落ちた感覚の結果として、視覚性を強めている。アーティストが展示に寄せた文章に書かれているように、鑑賞者もまた、「記録されることもなく、見えるわけでもない。それでもそこに確かに存在するなにかを見ようと」 (*2) している。
イ・ソウィ〈Off Sight〉(2019)/写真:YANG IAN
〈Off Sight〉は、匂いやおしゃべりの内容をはじめ、記録されないものを受け手の心象風景に描こうとしている。それは、同名の個展《Off Sight》で共に展示される映像作品〈透き通った、低い声〉(2019)の真っさらな朝食の風景によって、一層強調されている。かつてそこで行われた経験は、現在へどのように現れるのだろうか。先のパク・ソンホの作品のように、過去の痕跡は、過去の痕跡として現れもするが、他方で過去とは分かち合えないものに落ち着くこともあると言えよう。イ・ミンジの作品も化石のように残ったイメージについて表しているが、過去を語りえないものとしてのイメージを、扱っている。映像作品〈light volumes〉(2018)には、祖母にまつわる写真が封筒から取り出され、並べられてゆく。祖母が語る内容が聞こえるものの、写真がどのように互いに関連し合うかまでは、映像に映し出されない――そうして、写真はまた最初と同じように封筒にしまわれてゆく。結果、現れては消えた写真を見た経験だけが、鑑賞者のもとに取り残される。
イ・ソウィ〈透き通った、低い声〉(2019)/作者提供
イ・ミンジ〈light volumes〉(2018)/作者提供
イ・ソウィの〈Off Sight〉で抜け落ちた経験の情報(値)は、イ・ミンジの作品では写真を見る経験として、とり残されることになる。封筒から次々に並べられる写真を見続けながら、祖母の思い出や記憶を埋め合わせる隙を与えることなく、画像は並べられ、位置を変え、そして再度封筒にしまわれる。それによって、鑑賞者を出来損ないの探偵のように仕立て上げる――かつて存在していた生物が平らな視点から骨として知覚されていたわけではなく、化石そのものは、あくまで事後的なしるしに過ぎないと言い切るように、だ。作中で並べられた写真を「見た」経験だけが自明なまま、受け手は追いやられてしまう。映像が終わったとき、現前しない写真をイメージし、祖母を描こうとする鑑賞者は、過去に触れることなく、今に取り残される。
3.魂を置き去って
2020年、パンデミックの真っ只中、アン・チョロンの個展《Natural Gene》がソウルのTaste Houseで開催された。私は会場を訪れることないまま、手元に届いた同名の写真集をめくった。この写真集は、個展の開催に合わせて刊行されたもので、アーティストが旅先で残した写真の記録である。見終わった後、白地のカバーに「Miss You」とデザインが施されていた。よく見ると、それは見返しの写真に写った歌詞の一節であることがわかる。この写真は、ブックレットに載っているシャーデー(Sade)の一曲「Maureen」の歌詞を、アン・チョロンが写真に収めたものだ。Miss You――あなたが恋しい、または、あなたを逃す。かつての時空間から今に届けられたイメージに限らず、受け手も同様に、逃げ去る存在である。今となっては辿り着けない場所へ、一次的にタイムスリップして、その過去に戻ることが、イメージの前で可能なのだ。写真に収められた歌詞の最後の部分「repeat to fade」は、イメージと鑑賞者における逃げ去る行為と共鳴する。消え失せるように繰り返されるのは、過去を別の時空間へと届けるイメージのあり方(より具体的に言えば、本の「最後」を飾る写真として)だけではなく、イメージを前にしながら過去に幾度も行方をくらます、「抜け殻」としての鑑賞者の姿でもある。
アン・チョロン『Natural Gene』(2020)、本の見返し部分/筆者撮影
韓国語の表現に、「ぼうっとする=魂を置き去る(넋을 놓다)」というものがある。この言い回しは、イメージと受け手の「逢引」関係として、写真を見ることの特徴をよく表している。それは、「かつて」と「そこ」が「今」と出会いながらも、受け手の今を、別の時空間に出向くよう仕掛ける関係である。キム・イキョンの作品〈Further 001〉(2018)に映っている人々は、海の先になにかを見つめている。アーティストが昔の写真を見つけて撮影したこの作品は、抜け殻としての被写体だけでなく、鑑賞者の姿までも表している。写真に写る彼らは、「ぼうっとして=魂を置き去って」いる姿で佇んでいる。浜辺で佇む彼らは、こちらからの目線、つまりカメラマンと鑑賞者を意識することなく、没入している――転じて、カメラマンと鑑賞者においても、没入が行われている。被写体を追う眼差しは、カメラを構えたそのとき、また、展示会場という鑑賞の場においても、彼らに意識を向けている。ロマンチックとは、外から生れるだけでなく、我々の内から生れる抜け殻である。この抜け殻は、「今」という位置を脱し、過去や未来(という時空間)へ身を委ねる「来る場所」として、無意識の内に与えられる――「ひょっとすると」という仮定を目先に描きながら、幾度も消え失せる今の中で。しかしながらこの作品は、被写体と鑑賞者が抜け殻になる前のものとして、立ちはだかる。イメージとして、この写真は昔の記録以前に記録物として、つまり印画された「もの」であることを、埃や傷が語っている。鑑賞者がぼうっと見入る前に、ぼやっとしているイメージとして、イメージとしての抜け殻は、かつての時空間にのめり込む前の、ローディング中の画像として、我々の前に立ちあらわれる――そのような意味で、「ひょっとすると」は、限りなく到達していない今として、今あらわれる/未だあらわれていない。
キム・イキョン〈Further 001〉(2018)/作者提供
*1 《分身術:徐市過此》の図録の写真には、3人の写真家(キム・キョンテ、キム・ジュウォン、キム・イキョン)による記録写真も含まれている。観客の写真とは異なり、3人の写真家による記録は、それぞれの特徴が伺える。
*2 《Off Sight》、アーティストによるステートメントを参照。
紺野 優希 美術批評家。主な研究分野は韓国のコンテンポラリー・アート。「依然として離れているが故に、私たちは虚しさを覚える: ソン・ミンジョン <Caroline, Drift train>における災難の状況と破綻したリアルタイム」で、GRAVITY EFFECT ART CRITIC 2019 次席に選ばれる。