(連載)三島由紀夫没50年に寄せて 大いなる葬送 ー 『春の雪』と〈男の死〉をめぐる二つの死の完成 文:打林俊

『文豪たちの写真史 ー エクフラシスと「写真経験」の冒険』タイトル一覧
#1 文豪たちの写真史 ー 文学でよむ日本の写真表現の地と図(はじめに)
#2 キャラメルとヴィーナス — 開高健「巨人と玩具」にみる「婦人科カメラマン」秋山庄太郎
#3 霧のような雪の中に散る不遇のモダニスト ー 谷崎潤一郎「細雪」にみる写真師・板倉
#4 三島由紀夫没50年に寄せて  大いなる葬送 ー 『春の雪』と〈男の死〉をめぐる二つの死の完成

 近代文学の中でこれ以上のものはないと思わされるエクフラシスが、三島由紀夫の『春の雪』冒頭の「日露戦役写真集」に収められた一点をめぐる描写だ。文芸評論家の佐伯彰一が新潮文庫版の解説で「巻頭にすえられたこの忘れ難い情景のイメージは〔……〕巻末における主人公松枝清顕の死と照応しているばかりでなく、四部作全体をつらぬく死のテーマをいち早く鋭利なかたちで告知するものであった」と指摘するように、その情景は物語全体の色温度を決定づけ、その後も物語中に何度も再帰してくる。かなり長いが、その写真《得利寺附近の戦没者の弔祭》(図1)を提示しながら引用してみる価値は十分にあるだろう。

三島01

家にもある日露戦役写真集のうち、もっとも清顕の心にしみ入る写真は、明治三七年六月二六日の、「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真であった。
 セピア色のインキで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがっている。構図がふしぎなほど絵画的で、数千人の兵士が、どう見ても画中の人物のようにうまく配置されて、中央の高い一本の白木の墓標へ、すべての効果を集中させているのである。
 遠景はかすむなだらかな山々で、左手では、それがひろい裾野を展きながら徐々に高まっているが、右手のかなたは、まばらな小さい木立と共に、黄塵の地平線へ消えており、それが今度は、山に代わって徐々に右手へ高まる並木のあいだに、黄いろい空を透かしている。
 前景には都合六本の、大そう丈の高い樹々が、それぞれのバランスを保ち、程よい間隔を以てそびえ立っている。木の種類はわからないが、亭々として、梢の葉叢を悲壮に風になびかせている。
 そして、野のひろがりはかなたに微光を放ち、手前には荒れた草々がひれ伏している。
 画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。
 そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。前景の兵隊はことごとく軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネサンス画中の人物のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして、左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間の遠く群がってつづいている。
 前景の兵士たちも、後景の兵士たちも、ふしぎな沈んだ微光に犯され、脚絆や長靴の輪郭をしらじらと光らせ、うつむいた項や肩の線を光らせている。画面いっぱいに、何とも云えない沈痛の気が漲っているのはそのためである。
 すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向かって、波のように押し寄せる心を捧げているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向って、その重い鉄のような巨大な環を徐々に締めつけている。……
 古びた、セピアいろの写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないように思われた。

 この写真は、後述する『日露戦役写真帖』の第2巻に収録されている。僕は、三島のいう「日露戦役写真集」はおそらくそれを指すのであろうと考えていた。ところが、三島の膨大な蔵書目録を確認すると、それと思しきものは1935(昭和10)年に軍人会館事業部の編集で刊行された『三十周年記念 日露戦役回顧写真集』しかない。そこでこの写真集をしらべてみたところ、案の定、《得利寺附近の戦死者の弔祭》(図2)が掲載されていた。初出の『日露戦役写真帖』では《得利寺附近の戦没者の弔祭》となっていて、微妙にタイトルが異なるのはなんらかの理由があるとは思っていたが、その謎も解けたというわけだ。

三島02

 だが、三島由紀夫文学館にも問い合わせてみたが、三島がこの写真集をいつどこで入手したのかははっきりしていないという。ただ、ドナルド・キーンに宛てた1966年2月25日付の手紙の中で、神田(おそらくは神保町の古書店街だろう)で日清戦争の版画を入手したと語っていて、似たような経緯で手に入れたのではないかと想像される。
 いずれにしても、日露戦争関係の写真のなかでこのイメージに目をつけた三島の慧眼にはおそれいる。というのも、『日露戦役写真帖』全24巻に掲載された写真、枚数にして600点あまりすべてに目を通しても、《得利寺附近の戦没者の弔祭》は間違いなく「ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがって〔……〕構図がふしぎなほど絵画的で眼をひく写真にはちがいないからだ。そして、三島がここに死と美を結節することに意味を見出していることが重要になってくる。
 戯曲「鹿鳴館」なども発表している三島が、明治という時代になみなみならぬ関心と憧憬を抱いていたのは疑いない。そんな彼が描き出したかったのは、富国強兵というスローガンに彩られた近代の始まりの終わりだったように思えてならない。

日露戦争に深く運命付けられた侯爵家のプリンス
 三島由紀夫の絶筆ともなる、60年におよぶ輪廻転生を描いた四部作〈豊饒の海〉の第1巻である本作の舞台は大正元年から2年にかけてで、明治天皇が崩御して御代がわりし、大正天皇の即位礼を翌年に控えた時期だった(実際は大正4年に延期される)。天皇は儀礼的手続きを経て即位してはいるが、それがまだ内外にお披露目されていない。この時期を、三島は明治とも大正ともいえない、いわば国際空港の出国後の無国籍のゾーンにも似た、真空の時期と捉えたのである。そして、鹿鳴館外交から日清・日露戦争と未曾有の快進撃を続けてきた近代、同時に19世紀という華やかな時代の終わりのはじまりを象徴する出来事こそが、日露戦争だった。

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