(連載)キャラメルとヴィーナス — 開高健「巨人と玩具」にみる「婦人科カメラマン」秋山庄太郎 文:打林俊

『文豪たちの写真史 ー エクフラシスと「写真経験」の冒険』タイトル一覧
#1 文豪たちの写真史 ー 文学でよむ日本の写真表現の地と図(はじめに)
#2 キャラメルとヴィーナス — 開高健「巨人と玩具」にみる「婦人科カメラマン」秋山庄太郎
#3 霧のような雪の中に散る不遇のモダニスト ー 谷崎潤一郎「細雪」にみる写真師・板倉
#4 三島由紀夫没50年に寄せて 大いなる葬送 ー 『春の雪』と〈男の死〉をめぐる二つの死の完成

 「もはや「戦後」ではない」− 1956(昭和31)年度の『経済白書』の結語に書かれた有名なことばである。第二次大戦後の目覚ましい復興と、朝鮮戦争に影響された経済特需で「戦後」を脱却した日本。その背景で、売れなくなったものがあった。キャラメルである。
 この「戦後」脱却に重なる1957年、27歳の開高健はマイナーな文芸誌『新日本文学』に掲載された「パニック」が『毎日新聞』の書評で当時影響力のあった文芸評論家の平野謙に絶賛されて、世に名を知られる存在となった。続けて「巨人と玩具」「裸の王様」を発表し、「裸の王様」は翌年第38回芥川賞を受賞する。
 世の評価だけみると「巨人と玩具」はなにかぱっとしないが、実際、当時から高い評価は受けていなかったようだ。1958年には増村保造監督作品として映画化されているが、当の開高の原作よりこちらの評論の方が多く残されているくらいである。
 大岡玲が『開高健短篇選』(岩波文庫、2019年)の解題で指摘するように、「そもそも開高健は過度にキャラクターの内面性を掘りさげること」を志向せず、それはこれら初期の3作品にもあてはまる。その作風をもってしても本作が評価されなかったのは、「組織と個人の関係に焦点を当てた社会派作品として認識もされ〔……〕この一篇が、ある図式化された枠のうちに捉われてしまった」(金子昌夫「開高健『巨人と玩具』」『三田文学』78(59)、1999年)ということなのだろう。
 だが当時、壽屋(現サントリー)宣伝部に勤務していた開高にとって、「巨人と玩具」は「いわば自家薬籠中の題材」(大岡玲)といえるものだった。そのテーマとは、サムソン、アポロ、ヘルクレスというギリシア神話の巨人の名を冠した製菓メーカー三社が、戦後の製菓業界を支えてきたキャラメルの売り上げ低迷に再起をかけようと繰り広げる熾烈なプロモーション合戦だ。
 製菓業界をとりまく当時の状況を簡単に見てみると、1949年11月から翌年4月にかけて水飴や業務用砂糖の統制が解除され、50年8月にはすべての菓子価格の統制が撤廃された。開高が題材として目をつけたころには、キャラメル販売をめぐって「かぎられた面積のなかでの陣取ごっこ」が繰り広げられていたに相違ない。
 「わたし」が勤めるサムソン製菓も、月ごとに落ち込むキャラメルの売り上げ報告が社内であがってくるたびに、連休の雨続きや「落ちつづける数字を説明するために〔……〕雨のない月は国鉄ストが、ストのない月は遊覧船の沈没が、汽車もとまらず船も沈まない月は颱風か洪水か大火が」理由にされていた。そんな中、サムソンはキャラメルの販売促進のために新たな懸賞を設定する。
 その広告写真を撮影するのが春川なる写真家で、このモデルこそが秋山庄太郎だと思われるのだ。まずもって、写真家の名前を構成する「春」−「川」それぞれの対になる単語を思い浮かべれば「秋山」になるもの偶然ではないだろう。開高は身近な写真家「春川」に次のように輪郭を与える。

春川は合田の古い友人で、流行作家である。若い頃には軟焦点のタンバールレンズなどを使って感傷的な作品を発表していたこともあったが、さいきんは女性ポートレートを専門に撮っていた。それもただの風俗写真ではなく、一癖も二癖もある演出と辛辣な観察で名を売っている。彼は好んで有名女優を狙い、ポーズの鎧のすきまからすかさず虚栄や孤独や皺をぬすみとった。売りだしたばかりの純情女優の鮫肌を公表して映画会社から抗議を受けたり、イヴニングを着たまま焼芋をかじるファッション・モデルの楽屋姿をスクープしたり、その身辺にはいつもなにか生いきとした醜聞があった。彼は中年をすぎても独身で、みにくく肥り、女をいじめぬいた作品をつくるにもかかわらず女たちに愛されていた。

 別の箇所には春川にいつも「クッキリ傷」のようなくまがあるとも描かれており、それは大きな涙袋をもつ、恰幅のいい秋山庄太郎の姿そのものである(図1)。
 春川と秋山に重なる点はそれだけではない。たとえば、「若い頃には軟焦点のタンバールレンズなどを使って感傷的な作品を発表していた」という描写も秋山のことだし、「売りだしたばかりの純情女優の鮫肌を公表して映画会社から抗議を受けた」というのは、のちに『美女とり物語』の中で秋山自身が語っている、淡島千景の胸のあざをキスマークだとふれまわってマネージャーの怒りを買ったというエピソードに重なっていく。

キャラメルとヴィーナス図版

戦後派世代への憧れと『洋酒天国』
 開高は大阪から東京に転勤してから秋山と知り合ったと考えられるが、それから「巨人と玩具」の執筆まで一年ちょっとしかない。それなのに「春川」が驚くほど秋山をトレースした人物であるところに、二人が短期間でかなり親密になった様子がみえてくる。「春川」が秋山をモデルに作り上げられる必然性とはどこにあったのだろうか。
 そこで注目したいのが壽屋宣伝部だ。ここでの開高の仕事として、広告と並んで挙げなければならないのが『洋酒天国』の創刊・編集だろう。この本は同社PRの一環として全国のトリスバーで頒布された、酒にまつわるエッセイと写真を中心に構成された小冊子である。開高を編集長として1956年に創刊され、58年に開高が壽屋を退職して嘱託になって以降は山口瞳に編集が引き継がれて64年までに60冊が発行された。
 「洋酒天国」という名称は当時壽屋専務だった佐治敬三の発案で、開高は「天国というのが安っぽい」と否定的だったらしいが、内容も「ノーメル賞」「酔族館」「飲んべえ世界航路」など軽妙なタイトルが並ぶ。一見「安っぽそう」でありながら、のちに『ニューヨーカー』のユーモア、『エスクァイア』の気品、『プレイボーイ』のエロティシズムをもった男性誌と称されたように、実力派の書き手と写真家を起用して、それまでにない新鮮な、吉行淳之介のことばを借りれば「昭和のモダン」が存分に発揮された雑誌だった。この若い感性を吹き込んだのが開高にほかならない。
 開高が実質的に編集長を務めていたとされる第22号くらいまでを見ても、安部公房、長谷川四郎、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作など第二次戦後派、第三の新人と位置付けられる若手作家が多く書き手に名を連ねている。誌面のグラビアをはじめとする写真も、創刊号の木村伊兵衛以降、秋山、大竹省二、早田雄二、稲村隆正、中村正也、中にはまだ若い田沼武能や細江英公の名前まで見られる。この時期、女優のポートレートやヌード写真を得意とした秋山や大竹、早田、稲村らは「婦人科カメラマン」と通称されていたが、婦人科カメラマンも総動員である。
 秋山は最初の写真集『美貌と裸婦』(1951年)の自序の中で「私自身、アプレゲール〔戦後派〕とは毫も思つてはいませんが」とことわってはいるが、彼らこそが、写真界では第二次戦後派や第三の新人に対応する世代だった。たとえば、雑誌『写真サロン』1957年12月号の「一九五七年写真界十大ニュース」のなかで、「第三の"新人"群大いに健闘す」という見出しがあり、そのひとりとして秋山が紹介されていることからも、当時、秋山が「写真界の第三の新人」と位置づけられていたことがわかる。
 『洋酒天国』の構成を見れば、新しい世代の作家に寄稿してもらうと同時に、それと対応する同世代の写真家の作品を掲載することは「昭和モダン」を作り上げていくために不可欠な選択だったといえるだろう。第三の新人以降の作家として評価される直前の開高にとって、兄貴分世代の戦後派世代が一種の憧れの的だったのはいうまでもない。なかでも、秋山は広告の撮影で日頃から壽屋に出入りしている身近な写真家だった。彼のこうした慧眼と壽屋の業務を通じての出会いの交差が、『洋酒天国』と同時に「春川」を生み出したのである。

婦人科カメラマン秋山庄太郎の登場
 1920(大正9)年生まれの秋山が写真を本格的にはじめたのは中学生のころ、親友の兄に勧められてのことだった。はじめは小西六(現コニカミノルタ)製の入門機パーレットを使っていたが、中学卒業のころには現在の金額で35万円にもなるというドイツ製のバルダックス・カメラを買っている。写真熱はそのまま大学に入っても続き、早稲田大学在学中は写真部に入り表現を磨いていく。
 大学卒業を間近にひかえた1943年に自費出版した写真集『翳』を見る限りでは、当時の彼の作風は広く、戦前にアマチュア写真家たちが熱をあげていた、いわゆる「芸術写真」(ピクトリアリズム)の感性を垣間見ることができる(図2)。講評会で、資生堂の社長にして著名なアマチュア写真家の福原信三に写真を褒められたことがあるというが、まさに福原が率いていた日本写真会は、ピクトリアリズムの代表的なグループの一つとして強い影響をもっていた。『翳』というタイトルは谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』からとったというが、まさに、光を読みその裏腹に双生児として生まれる翳を愛でるという感覚は、福原が唱え続けた『光と其諧調』の理念に通じるものだ。
 同年、秋山は大学卒業と同時に結婚、製薬会社に就職するが、間もなく陸軍に召集され中国に送られる。長野で終戦を迎え、一時はその時のつてでリンゴを仕入れて東京の闇市で売って生計を立てていたが、青果問屋を営む父に見つかってやめさせられ、1946年には父の側近たちから金を借りて稲村隆正らと銀座に写真スタジオをオープンする。この秋山写真工房は鳴かず飛ばずで一年としないうちにたたむことになってしまったが、多くの写真家が立ち寄って昼間から酒を飲むような梁山泊と化していたという。
 さすがに懲りた秋山ももう写真家はやめようと思ったというが、決心した直後に銀座の路地で原節子とすれ違い、やはりあんな美人女優を撮れるなら写真家も捨てたものではないと思いなおす。そんなおり、秋山写真工房に出入りしていた写真家の一人だった林忠彦に『近代映画』のカメラマンにならないかと誘われ、原節子を写真に撮るという夢はわずか数ヶ月で叶うことになる。
 1951年に近代映画社を退職した後は再びフリーランスになり、「婦人科カメラマン」の道に邁進していく。近代映画社を辞した理由として、秋山は『近代映画』の表紙が目立つように派手な色の背景で撮影しろという編集長の指示に対して、黒背景で撮りたいと提案し対立したからだといっている。
 『近代映画』ではそれは叶わなかったが、退職直後の林忠彦との二人展には黒背景のポートレートを多数出品し、おかげで業界では「黒焼き庄ちゃん」とあだ名される。当時としてはまだめずらしい、黒背景の中にモデルを配置してその人間性を浮かび上がらせるような表現は、この二人展当時から議論を巻き起こし、「いまの日本の写真にはあまり見られない変わつたスタイル」(伊奈信男「写真家の横顔(8)秋山君のこと」『アサヒカメラ』1953年1月号)、などと評されていた(図3)。岸哲男はのちに『戦後写真史』(ダヴィッド社、1974年)の中で秋山を「徹底的な演出派」だといっていて、こうした評価はとりもなおさず、開高が描く「ただの風俗写真ではなく、一癖も二癖もある演出と辛辣な観察」をする春川そのものである。
 このころから高く評価されるようになってきた秋山は、「巨人と玩具」が発表された1957年には壽屋の女性モデルを起用したポスターの撮影も請け負っていて、ポスターの下に大きく「撮影:秋山庄太郎」とクレジットが入っていることからも、実力派写真家の地位を確立しつつあったことがうかがえる(図4)。ただ、基本的に同社の写真主体の広告にはコピーが入らなかったため、『年鑑広告美術』などを見ても秋山と開高が同じチームで手がけた広告は見出せない。とはいっても、開高は壽屋で「巨人と玩具」の合田に近い立場にあったのだから、秋山の撮影に立ち会うこともあっただろう。
 小説のなかで「合田と春川」に転化されていく彼らの物語を読み進めていくことにしよう。

キャラメルとヴィーナス図版3,4

ここから先は

5,191字 / 2画像
この記事のみ ¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?