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久しぶりに心の底から怒って、笑えた

 大切な出来事をコンテンツ化するのはあまり好きではないのだけれど、それ以上にしっかり記録しておきたい、と感じる出来事があったので書き残しておこうと思う。

 つい最近、私には非常にショックな出来事があった。(この件に関しては相手がいるので詳細は省くが、私がどう感じたかだけ綴ろうと思う)

 言われた言葉に対し、あまりにもショックで頭が真っ白になって、その場をやり過ごしたはいいものの、後からじわじわと怒りと哀しみが湧いてくるような。そんな大事件だった。間接的に自分が否定されたような気分だった。悔しかったし、それでも我慢して、冷静に言語化できるまで待とうと思った。
 でも、無理だった。
 痛いもんは痛いし、嫌なもんは嫌なのだ。

 私は、「恋人」という存在に対して、昔からうまく飲み込めない部分があった。「私は恐らくこの人のことが恋愛的に好きなのだろう」と思っても、結局「友人」との違いが分からず、人に相談する時でさえ「本当にそういう意味で好きなのか分からない」という悩みが主なものだった。それは大学に入ってからより加速した。
 周りの人にはそうでない人もいる。というか、そういう人が大半ではある。恋愛を楽しんで、恋人という唯一無二の存在がいることを大切にしている人もいる。そうして結婚する道を選ぶ人もきっといる。
 自分はそうはならないだろうな、というぼんやりとした意識が、確信に変わるような出来事だった。正直言って、深く、傷ついた。でも、この傷も見ないふりをして、私は生きていくのだろうと思っていた。だって、これまでがそうだったから。

 そんな折に、大好きな友人がスペースを開いていた。すぐにリスナーで参戦した。話を聞いていたら嫌だったことを思い出して、どうしても聞いて欲しくなって「喋ってもいい?」と言ったら、聞いてくれるとのことだったのでドタバタで参戦した。会話するのは約1年ぶりなのに、快く受け入れてくれてありがたかった。
 やっぱり言語化はまだ上手くできなかった。でも、友人はそんな私のボロボロな話の流れの中でも、私の感情をまっすぐに受け止めて、言葉を拾ってくれて、「忘れない」「一緒に怒るから」と言ってくれたことがとにかく嬉しかった。
 「そうか、怒ってもいいんだよね」と言った気がする。友人にも、自分自身にも確認するつもりで、しっかり声に出した。「嫌だったな」「怒っちゃったな」とひとつひとつに目を向けた。痛かったけれど、目を背け続けるよりもスッキリした気持ちになれた。
 これまでの私は、怒りを忘れて、飲み込んで、傷ついた自分から目を背けることが「大人になること」だと思っていた。でも、その行為こそが、本当は大切にしたい自分を傷つけていたんだ、と思った。

 私は、今のままだと、結婚はきっとしないし、恋愛そのものについても今はまだよく分からない。それでも幸せに生きていきたい。誰かの思い描く幸せのテンプレートに、自分を当てはめられたくない。私は、誰かにこの価値観を押し付けることは、しないから。

 それからは関係ない話をして、大きな声を出してたくさん笑った。数分だけ喋るつもりが、2時間以上喋り続けた。笑いすぎて涙が出た。冗談抜きで息ができなかった。何度も布団に倒れ込んだ。
 正直言って、とても救われた。
 そんな友人がいて良かったと思う。家族じゃなくても、恋人じゃなくても、そこにただいるというだけで嬉しくて、幸せを願える、そんな存在がいて良かったと強く思う。
 「本当にありがとう」「また明日ね」と、直接会えなくても、遠く離れた場所でも、伝えることができる時代にいることができる幸せを、噛み締めた。
 

 最後に


 私が酔っ払った時にその友人に送った言葉(一部抜粋)は、「こういう人が存在してくれてるんだってそう実感することができるだけで私はこれからも生きていける」だ。酔っている割には端的によく書けていると思う。自分も誰かにとってそんな人になりたい。
 周りの人に生かされている。
 私はこれからも生きていける。

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