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うせもの

 おみくじの、あの「失せもの出る」とはなんなのか。
 失くしたものが出てくるんだよ、と母親に教えられて、失くしものや忘れもののトカク多い子どもだったわたしは、失くしたものが次々と出てくる光景を思って、うろたえた。それは吉なのか、凶なのかと聞いて、吉に決まってるじゃない、と母親はあきれた。
「失くしたもののなかで、一番出てきてほしいものを念じてごらん。それが今年、出てくるってことだから」
 母親がニヤニヤするのは、わたしがこれまで失くしたなんやかんやのうち、あれやそれやの見当をつけている証拠だが、ものを失くしたときの顛末をこちらは逐一覚えているわけではないので、子どもはさらにタジタジとなって、そのときふいに、学校を出るときにはたしかに肩にかけていたピアニカの浅葱色のケースが家に着いたときには忽然となくなっていて、なんであんな大きなものを……と玄関のカマチに仁王立ちした母親の姿が浮かび、そのピアニカの浅葱色のケースが、いまからうちに帰ると勉強机の上なんかに人待ち顔して置いてあるのを想像すると、もはやたじろぐどころか恐怖さえ覚える始末なのだった。
 さんざん探して出てこなかったものについては、最後まで失せものであり続けてほしい。急に出てこられても困るのである。モノ自体に意志があるものか、はたまた隠したり出したりして人を困らせるモノノケでもいるものか、そんなことを悩むのだってバカバカしい。
「パパ、帰ってくるかな」
「それは失せ物じゃない。待ち人」
 言われて待ち人の項目を見たはずだが、なんと書いてあったか。待ち人? まさか、あれはほかならぬ失せものでしょうよ、と内心で反発されたのはいまだによく覚えている。

 失くしたものが出てくると、もうこんな幸せはないと錯覚する。そもそも失くしたという不幸が始まりだから、マイナスとプラスでゼロに戻っただけなのに、見つかった幸せのほうが数倍も大きいように感じる。長期休暇はたしかにご褒美のようだけれど、あれも、仕事に追いまくられた日々が一旦中断する長期休暇前日の、寝るまでの数時間こそあらゆる憂いから解放された「シャトーブリアン」なひと時で、休暇に突入したが最後、終焉までを刻々数えては、足の先から胆汁が溜まるようで、徐々に徐々に心もからだも重たくなっていく。マイナスからプラスに転じたその瞬間こそが、人の幸福の最たるものであるとうそぶきたくもなる。

 あの年、浅葱色のケースのピアニカはついに出てこなかったけれど、パパの失踪宣告がなされたと言う点では、皮肉な形で「失せもの」は「出た」のだった。いまさら母親もわたしも悲しんだりはしなかった。当たり前のことを、念押しされた感じだった。失踪宣告とは、すなわち法的にはその人の死を意味する。母親はそうしたことをきちんと教えてくれた。そういうわけだから、と母が言い、わかってる、ありがとう、とわたしはわたしで変な返しをした。
 そしてその夜、風呂場で初めての発作が起きた。
 パパがそうだったのよ。遺伝してなければいいと思ってたんだけど。
 目を覚ましたわたしの額を撫でながら、母は言った。
「ごめんなさいね」
 しばらくして、わたしは言った。
「わたしこそ、ごめんなさい」


 一生子どもが産めなくなると知ったとき、わたしはたじろがなかった。入院のせいで仕事を中断せざるを得ないことこそ、わたしは憂えた。恋人はいるにはいたが、その人と家庭を持つ可能性は万が一にもなかったし、だから、子をなすという一事はとうから念頭になかった。未婚のまま子どもだけを得る、ということをわたしはいつか夢想しただろうか。しかしそれはわたしのエゴだ、と戒める内奥の声がいつもあったように思う。生まれてきた子どもは、いつか父親の不在について問わずにはいない。そして必ずやつらい思いをする。いつかのわたしのように。自分ひとりの幸不幸に留まらない事柄について、どうやらわたしは極端に臆病な人間になり果てたようだった。
 母は、わたしが望むものを与え、望むことをなんでも叶えようとした。無償の愛。その根底にやましさがあるなどとは微塵も思わない。けれども、わたしが独り身で居続けることが、少なからず母を苦しめていたかもしれないと遅まきながら思い当たったとき、わたしは自分の迂闊さに愕然とした。母ならわかってくれるはず、と前提することが、途方もないエゴの甘えにほかならなかった。
 人生は、容赦なく前進する。
 失せものは、出ない。
 入院のこと、手術のことを話し、結びに謝っていた、ごめんなさい、と。
「あなたはほんとうにバカだね。なにかあると、謝ってばかりいて」
 そう言って、目元に手をやった。

 そのフロアの入院患者はすべて女性だった。入り口すぐのところにナースステーションがあり、廊下はそこから二手に分かれて、右手の長い廊下の両側に並ぶのが六人からの大部屋と個室。わたしは大部屋の窓際の一角をあてがわれた。染井吉野ははや散り終わり、遠くに霞む山影にちらほら見える濃い花むらは八重桜、病院の入り口の脇の花壇には雪柳が旺盛に花をつけてたわんでいた。
 フロアの入り口から見て左手は職員用の自動ドアで隔てられており、それが開くと、向こうにピンク色で統一されたこれまた長い廊下が伸びているのが見えた。臨月に近い妊婦が、家族に付き添われてゆったりと歩く姿が時折覗かれた。そして、かすかに聞こえる新生児たちの泣き声。
 大部屋の先客は四人、でっぷりと太った人から骨と皮のような痩せた人からいずれも老境にかかる年配者で、挨拶するたびに、おひとりなの? といぶかられて決まりが悪かった。早々に軽装になると、落ち着く暇もないままあれやこれやの検査が始まって、病室に戻る時分にはフロアに夕餉の匂いが立ち込めた。
 大部屋に入ると、四人のベッドに銘々家族が取り付いて、談笑の真っ只中。奥の窓際の一角のカーテンを引くと、果たして母親がベッド脇に折りたたみ椅子を出してちょこんと控えていた。
 母はこういうとき、テレビを観るとか本を読むとかして時間をつぶすようなことはしない。待つとなったら、ひたすら待つ姿勢の人なのである。窓外にやった目を上げて、
「おかえり」
 と言って微笑んだ。
 ベッドに渡された架上にすでに夕餉は調えられてあった。
「口に合わないものばかりだといけないから、少し作ってきたよ」
「いいのよ、そんなこと、忙しいんだから。見舞いだって、来られるとかえって恐縮だし」
「ちょっと、謝るのは、なしよ」
 母の怒るような真顔を見て、わたしは思わず笑ってしまった。
「やだ、タコさんのウインナー。遠足じゃあるまいし」
「だって、あなた、好きじゃない」
「好きだよ。でも、その好きは、タコさんのウインナーが担う思い出ぜんぶをひっくるめて、好きということ。別にウインナーが好物ってわけじゃない」
「じゃあ、嫌いなの」
「嫌いじゃないけど」
「なら、よかったじゃない。ほかにもあるわ。鷄のもも肉のソテーとか」
「あ、それもね……」
 言いかけて、わたしはもう一つのタッパーの蓋を開けると、レモンとローズマリーの香る鷄のもも肉のソテーに目を輝かせた。
「これも味じゃないのよ。いえ、ママのソテーはもちろん美味しいわよ。大好きよ。でもこれをわたしが好きなのは……」
 言って、六等分された切り身のひとつを箸でつまみ上げる。案の定、すべてがつながってついてきた。
「ほら、ちゃんと切れてないのが、ママの印。きゅうりでもなんでも、ママのはいっつもみんなつながってる。それを切り離して食べるのが、わたしには、なんていうか、とても懐かしいってこと」
 言いながら、鼻の頭がにわかに熱くなる。顔が皺くちゃになるのを、わたしはどうすることもできない。


「お若いのに、かわいそうに」
 そんなに若いわけじゃない。
「こんなことになるなんて、さぞかし未練でしょうけど」
 子どもをほしいと思ったことなんてない。そもそも子どもはきらい。
「元気を出して。生きてるうちには必ずいいことがあるから」
 いいことがないかと探し回るような、そんな惨めな人生はまっぴら。
 ……とは口に出さず、我ながら驚くような穏やかな笑みを浮かべて、女たちの質問やらなにやらに答え、受け流し、そしてしみじみと礼を言う。聞かれもしないのに、女たちは順々に病状を開陳する。なかには聞く限りずいぶん危険な状態の人もあったが、大丈夫、ここの先生はこの道のケンイだから、とウインクを寄越した。
「ところであなた、最近ニュース観てる」
「テレビは観ません。新聞も、読みません」
「それでも、あなた、昨年の暮れからペルーで日本大使館がテロリストに占拠されてる事件は、さすがにご存知よね」
「はい」
「それがもう、私たちにはかわいそうでかわいそうで」
 人質が、と思いきやそうではなく、女たちがひとしきり同情を寄せるのは、ほかでもないテロリストたち。彼らはみなインディオの末裔で、建国以来ずっと虐げられてきたのだと。彼らのなかには年端もいかない少年少女もいて、止むに止まれず今般の暴挙に至ったと。テロリストとは言い条、終始紳士的で、当初何百人といた人質はほとんどが解放され、いまは数十名の男ばかりになっている。同志の解放が彼らの要求だが、いずれにせよ、死者ひとり出すことなく無事解決してほしい、と女たちは切々と訴えた。

「世の中、不思議なこともあるものね」
 言いながら、母が手元の大きな紙袋から取り出したのは、ピアニカの浅葱色のケース。わたしが小学二年だったか三年だったかの時分に失くした例のそれにほかならなかった。
「うそ、ほんとに? どこにあったのよ」
「押し入れ。あの人の遺留品を入れておいた段ボール箱がひとつあったじゃない。ちょっと思うところがあって、開けてみてびっくり。なんであんなところに」
 ケースを開けると、ピアニカがきちんと収まっている。数回触ったきりのそれは、新品同様の輝きを帯びていた。
「そればかりじゃないんだって。さっき、ちょっと思うところがあってって言ったでしょ。それというのがね、ほら、あなた、十年くらい前にリュックごと電車でスられたことがあったじゃない」
 いまの仕事に転職したのを、古い仲間が祝ってくれて、思いのほか飲み過ごした、というより転職先での連日の緊張状態が想像以上に心身に祟っていたもので、いずれにせよ相当の悪酔いをした、で、電車のなかでリュックを抱えて寝入ってしまい、家の最寄駅で降りてふらふらとトイレに向かう途中、背後から、「お荷物をお持ちしましょう」と優しく声をかけられたのを最後の記憶にそれっきり。リュックには届出印から通帳からわたしの全財産と呼べるものがぜんぶ入っていて、さすがにそれからの数日は塞ぎに塞いだ。身投げしたいような往時の憂鬱がまざまざと思い出されて、それが? と話の接ぎ穂を短く投げやるのがやっとだった。
「昨日、うちに電話があったのよ。拾得物としてあなたのリュックが届けられてるって。実印も通帳もある。パソコンも入ってる。財布も入ってるけど、中身が元のままかはわからないって。図書館のカードに家の電話と思しき番号が記されてあったから、念のため電話してみたって。電話、どこからだったと思う。なんと、長崎は五島列島のなんとかいう村だか町だかの派出所だって」
 五島へは、一度学生のときに訪ねたことがあった。観光で。しかしそれは二十年以上も前の話。まったく腑に落ちない。
「で、なんか、胸騒ぎがしたのよ。それであの人の箱を開けてみたら……」
「パパは五島となにか関係あるの」
「ぜんぜん」
「じゃあ、その胸騒ぎって、なに? 思うところって?」
「わからないわよ。強いて言うなら勘よ。別にこの際、長崎だろうと五島だろうとかまやしない。問題は……」
「わたしの失せものが出たってこと」
「そう、それ。失せもの出る、の一事がパパのことと結びついた」
「どういうことなの。これって、パパが関係しているの」
「わからない」
 遺失物については、郵送も可能との警察の説明だったらしい。どうする、取りに行く? 送ってもらう? と問われて、わたしは保留にした。退院するまでは、細々したことは考えたくなかった。母も、それがいい、と慰めた。

 翌日仕事帰りに見舞いにきた母親は、手術を明日に控えた娘を前にして、それでも興奮を隠せなかった。昨日の今日とて、無理もなかった。
 あなたが就学前に失くしたあれとこれ、小学何年生の時分に失くしたあれとこれ、それから中学生になって失くしたあれやらこれやらが、家のなかの、思いもかけないところから次から次へと出てくるようになった。いったいどうなってるのよ、と母親は誰にともなく怒るように言いながら、その怯えを露わにした。


 目を覚ますと傍に看護師がいて、その問いかけに対してどこか他人事でいながらわたしは正確に答えていた。やがて母が呼ばれた。二言三言交わすと、わたしは疲労を訴えた。じっさい、何時間と泳ぎ続けたように疲れ切っていた。母はうなずいてわたしの手を取り、もう片方の手の甲で、わたしのこめかみから頬のラインを繰り返しなぞるようにした。じきわたしは深い眠りに落ちた。

 退院の前日、その日は未明から大部屋は騒がしかった。やがて女のすすり泣く音が聞こえ、それも複数に及んだ。
 同室の誰かになにかあった、とまずは思った。しかしそれは信じられないことだった。術後しばらくもしないで、夕食前の三十分ばかり、仰臥を強いられているわたしを同室の四人が訪ねるようになり、四方山話に花を咲かせた。医師や看護師の噂話やら別室の入院患者の病状やらを事細かに交換し合い、家のこと、仕事のこと、最近観たニュースのこと、いま病院の植え込みに咲いてる花のこと、料理のこと……と次から次へ目まぐるしく話題は転じていく。この人たちの、そうすることで自分を励まそうとする心を、わたしはたしかに汲んでありがたかった。うるさいくらいがちょうどいい。そしてじっさい、修学旅行のように毎日が賑やかだったのである。四人のうち、誰が急な容態変化に見舞われるものか、だから見当もつかなかった。
「起きてる」
 とカーテン越しの押し殺した声。はい、とこちらも押し殺して答えると、するするとカーテンが引かれて、一、二、三、四と、そこにあるのはいつもの面々。
「どうしたんです」
「……みんな、死んでしまったの」
「どういうこと」
「殺されたのよ。みんな仲良くサッカーをしてたって。そこを地下にトンネルを掘って、床を破って突入して、銃を乱射した。あっという間だったって」
「女の子も男の子もみんな死んでしまった。彼らの願いは届かなかった。そして私たちの祈りも」
「かわいそうでかわいそうで……」
 そう言うなり、ひとり、またひとりと嗚咽し始めた。
 五島の派出所に届けられたという、十年前の失くしもののことをわたしは思っていた。失くしものや忘れものの多いわたしは、その昔、それらがどこかの倉庫かなにかに保管されていて、いつかぜんぶ自分の手元に戻ると妄想したことがあった。それは死の間際に見る夢として起こることかもしれない。すべては幻かもしれなくても、それらを手にしたときのわたしは、これ以上ない安堵に包まれる。手元に戻るとは言っても、それらが次々にわたしの手のうちに転がり込むのではない。わたし自身が、失せものがことごとく保管された倉庫かなにかの暗がりを訪れることをもって、それは実現する、というのが妄想のあらまし。
 しかしわたしは死ぬことでその倉庫に行けるとは思わなかった。失せものに逢うためには、わたし自身が失せものにならなければならない。失せものになるためには、わたしは誰かに失くされなければならない。わたしを失くす者は、わたしを所有する者である。それでは、わたしを所有するのは誰か。母か、父か、それともわたし自身か。わたしはわたしの失くし方ひとつ知らない。それが死ぬことではないとしたら。そんなことをぼんやり思い出していた。
「失くしたもののなかで、一番出てきてほしいものを念じてごらん。それが今年、出てくるってことだから」
 母の声が耳間近に聞こえるようだった。それにしても、一番出てきてほしい失せものなんて、あるだろうか。
 あるとすれば。
 女がふたり右のかたわらにいて、別のふたりが左のかたわらにいる。嗚咽は止まず、やがて泣き頽れた。床に膝をつくと、掛け布団の上に両腕を組んで四人してうつぶした。
 四人の頭はわたしのうつろになった腹のあたりにあって、手を伸ばせば届く位置にあった。わたしは手を伸ばした。そして、脂気の引いたこわい髪の頭を、愛おしげに撫ぜた。
「大丈夫。みんな戻ってくるから」
 誰にともなくわたしは言った。
 程なくして、大部屋に煌々と明かりが灯されると、堰を切ったように靴音が雪崩れ込み、医師や看護師の、口々に「大丈夫ですか」「どうされましたか」とせっつくような声を聞いた。

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