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川獺

その昔……といっても明治の初め頃までは、東京は築地にも川獺(かわうそ)が出て、これが夜な夜な人に悪さをするという話が、田中貢太郎の聞き書き怪談に見えている。

橋の袂の共同便所に夜通し灯がともり、その灯が風もないのにゆらめくような夜には、きまって川獺が出ると噂され、芸妓の誰かが置屋の二階からひょいと覗いて、「今晩はダメ、灯が、少しヘンよ」となれば、その橋は渡らず、一行は隣りの橋まで遠回りして向こう岸へ渡った、とある。

待合に呼ばれた若い芸妓が車を待っている。待てども待てども来ないから、どうせ迂回路もない一本道、出会い頭に迎えの車に拾ってもらおうと歩き始めたところが、やがて辺りは見も知らぬ荒漠たる景色に変貌して、ああ、これはきっと川獺の仕業、と合点するなり、芸妓はその場にしゃがんで耳を塞いだ。やり過ごしてしばらくすると、足音が迫って、顔を上げれば待ちあぐねた車夫だった。

それで怪談は仕舞いだから、他愛もないようなものだが、若い芸妓が、「きゃっ」といったかどうかはともかく、その場にしゃがみ込んで耳を塞いだ(ということはもちろん目も固く瞑ったろう)とは、なんとも可憐で色香のある景色だと読後に尾を引いた。




しゃがんで目を瞑った刹那、娘の周囲に陽の降る花畠が広がる、というのはどうだろう。それは故郷の風景にほかならず、耳を澄ませば、幼い弟や妹たちの、蝶を追って戯れる声がいまにも聞こえてきそうである。しばし陶然とするうち、車夫に顔を覗かれ、肩を叩かれる。
「姐さん、どうかなすったんで」

こうして半玉のお辰は人知れず川獺の夜を恐れず、ひとり往来にいて怪しの気配を察すれば、ときには勇気を奮い起こして恐るおそる土手の際に寄り、しゃがんで耳を塞ぎ、目をぎゅっと瞑って、待った。それは、かれこれ四年と果たされない帰郷を代替した。この頃では夢想の自分はだいぶん大胆になって、お母や弟妹の名を声高に呼びながら花叢を分けていく。行けども行けども花畠は尽きなかった。

お辰はある晩、同行のお清に川獺の夜の秘密を教えた。師走の弓張月がいましも中天にかかろうとする時分だった。共同便所の灯がいつになくゆらぐといって怯えるお清に、大丈夫、私がついているから、と手を引いて例の橋を渡らせる。川沿いの道をしばらく行くと、案の定、あたりに霧が立ち込めて、一間先も見えないようになった。
「お辰っちゃん、やっぱ、わたし、怖いよ」
震えるお清の手を引き寄せぎゅっと握り、お辰は耳元に囁いた。
「さぁ、端へお寄り。車に撥ねられでもしたらおもしろくないんだから。端に寄ったら、こうやって耳を塞いで、目を瞑ってしゃがむんだ」

しばらくすると、芸妓らの燥ぐ声が切れ切れに聞こえてきた。どちらからともなく薄目を開くと、霧はすっかり晴れていた。
「見た?」
「見た!」
そう確認したばかりで、二人の半玉はその場から跳び上がると、年端のいかぬ少女のようにくるくると笑いながら手を取り合って駆け出した。




十六夜が明けて翌朝、川に死体が上がった。誰あろう、ホトケは半玉のお清。この頃は、川獺の出そうな晩にかぎって急かれるようにしてひとり出かけるもんだから、なんだか怪しいとは思っていたとは、同じ家の口さがない姐さんの一人。痴情のもつれとも通り魔の仕業ともいわれたが、ひとりお辰は真相を疑わなかった。余計なことを教えたと心を痛ませつつも、アレは頻々とするもんじゃなかったと、自身の吝嗇を密かに喜んだ。さらなる伝では、見たこともない頭数の川獺が、朝ぼらけの、霞漂う河岸に団子になって固まって、そのすべらかな背や腹を競うようにして水面に浮かせては潜るを繰り返していて、それで不審に思った通りすがりの役夫が竿で突いてみたところが、獣の群れの間隙から女の真白い肌があらわになったという次第。以来、お辰はどんな夜でも橋を渡らず、必ず回り道をした。


「今宵はいつになく揺れてるねェ」
年季が明け、その夜はお辰にとって御披露目の夜だった。迎えの車を待つあいだ、共同便所の灯を見て彼女はにわかに蒼白するが、白粉の下ではそれは読めないし、もとよりお付きの半玉は、いわれてもてんで気がつかない。あれから半年もするうち、界隈にもまたたくまに人の手が入り、久しく川獺の姿を見なかった。そうなれば、狐狸の類に因する怪異など、若い子らは噂にも聞かなかった。
「待たせるねェ」
車にいったつもりが、半玉は付き添いの姐さんのことをいったものと早合点して、あたし、見てきます、と止めるより先に家へ入っていった。

川面が先刻から靄っていた。と見るまに霧が立ち込めて、しまった、と思ってからではもう遅い、辺りは見も知らぬ荒漠たる景色に変貌して、ああ、これはきっと川獺の仕業、と合点するなり、ほとんど反射的にお辰はその場にしゃがみ込んだ。昔したように耳を塞ぎ、目を瞑る。花畠を見るだろうとの淡い期待は、むろんなくはなかった。

しかしお辰は花畠を見なかった。どころか、盲いの闇に夢幻はなにも広がらなかった。ほどなくして、足音が近づいて顔を上げると、
「姐さん、迎えにきましたよ」
身扮は車夫でも、こちらを覗き込んだのは川獺の面で、すうっと提灯の明かりを寄せてから、くわっと真っ赤な口腔を晒した。






















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