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木霊

 今夜、ちょっと手を貸してくれないか。

 二十年来音沙汰のなかった友人のSは、いきなり電話をかけてくるなり、旧懐を温める暇も与えず、こう切り出した。そして矢継ぎ早に、少なくない額の報酬を提示した。妻に去られた上に失業中ときて、毎日が日曜日のぼくに、断る理由などなかった。ぼくの現住所を教えると、零時に車で参上すると告げ、友人は電話を切った。
 電話を切った直後、肝心の依頼内容を聞きそびれているのに、ぼくは気がついた。そんなこと、どうだっていいと思えるくらいに、そのときのぼくは、人恋しさが募っていたにちがいなかった。


 零時きっかりに室のインターフォンが鳴った。
 Sがアパートに乗りつけたのは、錆の浮いた白の軽トラックだった。マニュアル車しか借りられなかったとぼやいてから、運転免許は持ってるか、それはオートマ限定かと、Sはぼくに尋ねた。ペーパードライバーだがオートマ限定ではない、とぼくは答えた。
「それは良かった。帰りはきみが運転することになるのだから」
 意味深長なことをいうと、相変わらずこちらが質問する隙を与えず、Sはくるりと背を向け、車のほうへ足早に歩いていった。

「大した貫禄じゃないか」
 学生時代の華奢な容姿を迂闊にも思い浮かべていたぼくは、不意に目の前に現れたSの、その年相応の「恰幅の良さ」をまずは話柄にするのが、久しぶりの挨拶として上々だと思ったものである。貫禄などとおだてられ、破顔してくれればしめたもので、そうなれば老境入りしたお互いの近況を、当たり障りなくポツポツと話せると、こうぼくは踏んだのだ。しかしそういった前置きの類をいっさい受け付けまいとする頑なさが、軽トラを運転するSの横顔に張り付いてあった。だからぼくは、切り出しとして上々のはずの挨拶を封印して、すぐにも本題へ飛んだ。
「手伝うって、なにを」
「うん、それは目的地についてから」
「……ヤバい仕事じゃないだろうね」
「ヤバいといえば、ヤバいな」
「そうなのか」
「安心したまえ。きみにはいっさい迷惑はかからないから。そうだ、忘れないうちに渡しておこう」
 そういってSはジャケットの内ポケットから某銀行の封筒を取り出して、ぼくに差し出した。それは、電話でいわれた額をはるかに超える厚みと重さで、ぼくは面食らった。
「こんなに、受け取れない」
「全部千円札かもしれないぜ」
 Sは笑った。
「二百ある。それでもこれからきみに依頼することに見合うかわからない。見合わなかったら、いってくれ。できる限りのことはする」
 ぼくはしばらく二の句が告げずにいた。軽トラは内陸へ向かう高速道路に入った。真夜中の貸切状態のハイウェイを、660ccの水冷式直列3気筒エンジンが唸りを上げ、軽トラはみるみる加速していく。
「遠いのか」
「遠いといえば遠いし、近いといえば近い。あと一時間、いや、二時間か。それまで眠ってくれてていい」
 いわれてぼくは、目をつむった。

 Sと初めてことばを交わした日のことを、ぼくは思い出していた。大学に入学して早々、大講堂でのなにかの講義の折に、隣りの学生から、今度の日曜は暇かと藪から棒に耳打ちされた。それがSだった。それまでぼくは彼とはなんの接点もなかった。もちろん名前も知らないし、顔を見るのも初めてだった。
「今度の日曜に引っ越しするからさ、手伝ってよ」
 そしてその場でぼくは、彼から一万円札を一枚押しつけられたのだった。呆気に取られているぼくをよそに、Sはさっと席を立って講堂を出ていった。彼の居場所をつきとめるべく、それから三日とぼくは空費することになった。



 高速道路を降りると軽トラは、四方を山影に囲繞されただだっ広い休耕地の暗い畦道をひた走り、やがて山道に差しかかった。九十九折りの道を右に左に揺さぶられるうち、ぼくは少々車酔いを萌した。
 なんの変哲もない山際の路肩に、車三台ほど停められそうな引っ込みがあり、Sはそこに車を乗り入れた。車を降りると、荷台に回って柄の長いスペード型のシャベルを二つ取ってきて、一つをぼくに預ける。ここからは歩いて山を登るのだといって、Sは行手を懐中電灯で照らした。人ひとりぶんかろうじて空いた擁壁の切れ間から這い登ると、その先は、あるかなきかの木の根道だった。

 それは夏の終わりというか、秋のとば口というか、そんな端境の季節で、日中はどうでも、深更は森々と冷えてくる。しかし半袖一枚で不都合があるどころか、やがてSの背中や肩から、そしておそらくはぼくの背中や肩からも、濛々と湯気の上がるのが、星夜の薄明かりに見えていた。あるいはどこかに月がかかっていたかもしれない。ケータイを上着ごと車に置いてきたぼくに、時刻の知りようもなかった。

「ここだ。まちがいない」
 周囲をブナやクスノキといった照葉樹に囲まれた、取り立てて目印といったもののありそうにない窪地にたどり着いて、Sは大樹のひとつに背をもたせかかると、ずるずるとくずおれて根方に座りついた。疲労困憊した様子がありありと見えた。Sはズボンのポケットをまさぐって、タバコの箱を取り出すと、一本取って火をつけた。きみもどうかと勧められ、ぼくは断った。
「ここは『かえらずの森』といってね、過去の自分に出会えると土地ではいわれる禁足地なんだ。たとえばこんな夜更けに迷い込めば、昔の自分が向こうの木陰から手招きをする。招きに応じたら最後、二度と戻ることはできない、だから『かえらずの森』なんだな。それとわかるような祠を建てたり、紙垂で結界を張ったりしないのは、いわばいにしえの知恵によるのだね。禁足地であるのをわざわざ喧伝すれば、どこの馬の骨ともわからん連中が必ず荒らしにやってくる」
 ぼくもまた、大樹のひとつに背をもたせながら、終始気が気でないまま、Sのひとり語りに耳を傾けていた。シャベルなんぞをもって真夜中の山中に踏み入るとなれば、素人でもその目的は察しがつく。しかしぼくに、彼に埋められるいわれはなかった。ないはずだった。それにぼくがターゲットなら、シャベルをこうして持たせるだろうか。これは油断させるための演出か、はたまたぼくはぼく自身の墓穴を掘らされる羽目に陥るのだろうか。
「ぼくは十年ほど前から、毎年人知れずここに来ては過去の自分を埋めてるんだ。今日はね、五年前のぼくを掘り返してやろうという算段なんだよ。じつをいうと、いまのこのぼくは、万事休すというやつで、今日明日にも死をもって詫びざるを得ない状況に追い込まれているというわけさ。しかし五年前の、イケイケドンドンのぼくだったら、なんとかこの状況を切り抜けられるとふと思いついたんだ。だから、五年前のぼくを掘り返す。そして代わりにいまのこのぼくが永遠の安らぎを得る。そのために、きみの助けがどうしても必要だったわけさ」
「でも、なんで、ぼくなんだ」
「それは」
 しばし沈黙してから、Sは白い歯を光らせながらいった。
「たまたまきみが、ぼくの隣りに座っていたからだろう」

 友人は、シャベルを地面に突き立てるようなことはせず、それで表面の土を均すようにしながら、じつに慎重に当たりをつけていった。もとより掘り起こしを、ぼくには手伝わせなかった。おそらくは手荒なマネをされて、埋められた自分の軀を傷つけられたくなかったからだろう。
「ここだ」
 確信を得るなり、Sは黙々と土をシャベルで掬い上げていった。ぼくはそばで見ているほかなく、さっき友人から勧められたタバコをひとつ取らなかったことを今更のように後悔していた。一メートルほど掘り下げると、カーキ色のナイロンの袋の表が薄明かりに現れた。さらに掘り進めると、明らかに人ひとり収まっているとわかる袋の全貌があらわになって、このときになってようやくぼくは力を貸すことになった。
 ぼくは足側を持たされたのだが、それは予想に反して、たしかな重量感があった。Sが頭のほうを支えて二人して持ち上げてみて、袋の中身が中折れしないのは、なにか細い板のようなものに載せられているからだとは想像されるが、死後硬直した軀に触れたと確信される感触が、経験もないはずなのに、なぜかしきりとされた。
「ほんとうに五年前のきみなのか」
「そうとも、五年前のぼくさ」
「根拠は」
「根拠? 五年前の自分かどうかなんて、むしろ自分にしかわかるまいて」
 袋を地面にそっと下ろすと、Sはまたタバコを取り出して、火をつけ、紫煙を吐き出した。勧められたぼくに、今度こそ躊躇はなかった。
「最後の一服さ。うまいんだか、まずいんだか」
 Sはたっぷりと時間をかけて吸い終わると、吸い殻を穴の底へ投げ入れた。彼が終始自嘲気味なのに遅ればせながらに気がついて、ぼくはそのことを訝った。
「さて、いよいよきみに仕事をしてもらうときが来たようだよ」
 そういってSはぼくの肩に手をやり、ぐいと抱き寄せた。それから穴の際にひざまずくと、奈落のほうへやや首をかしげるようにしていった。
「一思いにやってくれ。一思いに。躊躇はタメにならんから。事が済んだら、とっとと穴を埋めて、そいつを抱えてここを速やかに立ち去れ。なにがあっても振り返るんじゃない」
 Sは右手で後頭部のあたりをさすって示すのだった。ぼくは手にしたシャベルを振り上げる。そうして躊躇なく、あらん限りの力でもってそこを打撃する。そういうことだっただろう。ぼくは札束の入った封筒の重みと厚みとを、今更のように思い知った。しかし金は必要でも、金に目がくらむほど、落ちぶれているわけではないはずだった。するとこれまた今更のように、Sの容姿がぼくにおいて異化されるに至るのだった。履いているスニーカーにしても、ジーンズのズボンにしても、白の無地のTシャツにしても、なにからなにまでいまのぼくのそれらとそっくりではないか。そう意識されると、地面に膝をついたSの背つきにしろ、後頭部からうなじ、首筋にかけての感じにしろ、自分でこのように客観視することなどまずないながら、他人のそれとはどうにも思われない。
「きみは、誰なんだ」
 ぼくは訊いていた。
「きみは、いったい、誰なんだ」
 Sが叫ぶ。
「だから躊躇するなって! さあ、一思いにやるんだ、一思いに! 事が済んだら、とっとと穴を埋めて、そいつを抱えて速やかにここを立ち去れ。あとは袋のなかのぼくが、万事的確に指示をきみに出すだろう」


 穴を埋め終えたぼくは、しかしSのいうようには、そこを速やかには立ち去らなかった。ぼくにはまずすべきことがあった。
 地面に膝をつくと、ナイロンの袋をまさぐって、ファスナーの類がないか探した。果たしてそれはあった。すでにこのとき、ぼくは袋の中身について、見当をつけていた。そしてその見当の外れることを切に願いながら、ぼくはファスナーを開いた。
 妻だった。
 そこにあるのは、ぼくのもとを去った妻の変わり果てた姿だった。ぼくはうなだれると、両手で顔を覆って、ひとしきり咽び泣いた。
 妻の亡骸を抱えて立ち上がる。
 窪地のぐるりを囲う木々の陰のそこここに、人影が見える。ここにいるのは、風貌こそ昔の自分のようでありながら、昔の自分とは似ても似つかないなにかである。木陰に隠れてゆっくりと、そよ風に揺れる絹布のような柔らかな手招きをする彼らこそは、得体の知れない異形の者たち。過去もなく、現在もなく、当然のことながら未来もない。
 来た道に背を向けると、ぼくは彼らのもとへ、勇んでその一歩を踏み出す。
 風がにわかに走る。葉擦れの音が、潮騒のようにあたりに渦巻いた。

 どこか遠くで、おーい、おーい、おーいと呼ぶ声が、聞こえていた。






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