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タピオカ

 その日の午前中に小五になる息子の奏多かなたのクラスで野外観察が行われた。
 子どもたちは学校の敷地に隣接する田圃に出向く。国民的唱歌に歌われた田園風景を再現すべく近年自治体のあつらえた田圃で、背後にひかえるこんもり山には古墳時代の横穴墓群もあり、一帯は地元の観光スポットになっていた。ぜんぶで六枚ある田圃のうち一枚が近隣の児童の啓発用に充てられたもので、五月の連休前、代かきの済んだ田の周辺に生う草花や集う昆虫を、子どもたちは支給されたタブレットのカメラで撮影し教室に戻って調べるというのがその日の課題だった。

 敷地の一画にコンクリートの筐型の貯水槽があった。上面全体に落下防止の金網が張ってある。なかを覗き込んだ奏多は、密集したカエルの卵が浮島のように浮いているのを認めて、「タピオカだ、タピオカだ」とにわかに騒ぎ立てたという。担任の女教諭が駆けつけて、「首藤さん、ふざけないで」と厳しく叱責する場面があった。「ふだんおとなしい子で、あんなに大声で喚いたのは初めてでした」とのちに教諭は証言している。

 給食後の昼休みにそれは起こった。
 奏多は自席にいてクラスの悪童らに囲まれる。突然一人に背後から羽交締めされ、一人に右手で頬を挟まれむりやり口を開けさせられ、一人にそこへピアニカのおそらくは短く切ったチューブを押し込まれ、そして最後の一人に鼻を塞がれる。チューブの片端は悪童の一人が手にした紙コップのなかに隠れて見えない。窒息寸前になった奏多は、やむなくチューブを介して大きく息を吸い込んだもので、すると紙コップの中身が口へ気道へ一気に流れ込み、激しく噎せ返って口中のものを周囲へ吐き散らした。牛乳とタピオカ。もといカエルの卵。それは田圃の貯水槽に浮いていたトノサマガエルの卵にほかならず、悪童たちの手によって野外観察終了時に密かに教室へ持ち込まれたものだった。このとき、小学生になって寛解したかに見えた発作が奏多を見舞ったもので、教室は騒然となった。

 殺人未遂とまでいって妻の暁子は事の次第を夫に伝えた。聞きながら「いじめ」の三文字しか夫の悟の頭には浮かばないが、今度のことは突発的に生じたもので、奏多はいじめられっ子ではないと暁子は断言する。それが学校側の見解でもあった。それにしても向こうの保護者から詫びの電話ひとつないとも暁子は憤慨するが、悟にしても憤慨するどころか不可解だった。発作を起こした息子は、教室に駆けつけた男教諭に適切に処置をされ、救急車で近くの大学病院に運ばれてことなきを得た。夕には母に付き添われて徒歩で家まで帰ってきている。向こうのうちは普通でないのだろうと思いつつ、「やった子たちは、なんて」と訊き、「食べ物をなにかに喩えるのはよくないことだから」と首謀者と目される子だけが発言してあとは黙りこくったらしいと妻はいった。下手人たちは悪童といえば悪童で、教室にカエルの卵を持ち込むとはいかにもやりそうなことだが、暴力を振るうような子たちではないとは担任の弁。その場で彼らから謝罪のことばはついに聞かれず、学校側は彼らの家にも当然連絡を入れたがいずれも不通で、奏多が病院から帰宅した宵の時点においても事態はなんら進展せず、そのことを女教諭は遅くに電話で詫びてきたとも妻は付け加えた。

 その後奏多はしばらく学校を休んだ。彼自身は元気で学校へ行きたがったが、暁子と悟が許さなかった。その間、加害者の保護者から連絡が来ることはなかった。そうなると、分があるのはこちらのはずなのに、被害者だからこそ募る怯えというものがある。疑心暗鬼とういやつで、向こうの沈黙の意味がころころ変わる、暁子と悟の頭のなかで。食べ物をなにかに喩えるのは良くないことだとリーダー格の少年はいったらしい。彼の親もしくは親族あるいは近しい知人の誰かがタピオカ関連の仕事に従事していたものだろうか。予測不能の突発的暴力は、ふだんおとなしく礼儀正しいとされる少年がひとたび正義に取り憑かれてする行き過ぎとして、いかにも似つかわしいとも思われる。とすると、向こうこそこちらからの謝罪を待っているのかもしれない。向こうにしてみれば息子がカエルの卵を喉に詰まらせて死にかけるなど当然の報いなのかも知れず、あるいは報いとして不十分だとすら思っているかもしれなかった。裁判、弁護士、相談費用、内容証明……等々のことばの切れ端が脳裏を飛び交うのは二人とも同じで、ときに暁子は平生らしからぬ激し方をして先走ろうとするが、それを制していましばらくの様子見をうながす悟は、冷静というより単に面倒を避けたがっている弱いだけかもしれなかった。

 奏多が学校を休むあいだは、夫婦交代で有給休暇を取った。妻が見守りのとき、れいの田圃を見回りたいと奏多はいった。代かきの済んだ田には今日明日にも苗が植えられるはずだと奏多はいうのである。だからなんだとなって、できれば田植えの様子を見たい、かなわなければせめて田植え直後の田を見たいのだと。暁子は子どもらしい純粋な好奇心と理解した。学校を休ませている手前、授業中の時間帯ははばかられ、暮れどきのだいぶ遅い時間に息子をふるさと農園(学校横の、こんもり山の麓の児童啓発用田圃をふくむ田地全体を自治体はそう命名していた)へ連れていった。はたして田一面に苗が植えられ、日没間際のこととて視界全体が空気まで樺色に染まるよう。畦道と田の接する汀にカエルの卵の浮いているのを暁子はふと認めた。それは寒天状の透明な柔らかなチューブのなかに黒い粒が整然と並んでトグロを巻いており、田舎育ちの暁子にはそれがトノサマガエルでなくヒキガエルの卵と一瞥してわかるのだった。卵もオタマジャクシもカエルも初夏のおとないを告げる身近な風物で暁子には子どもの頃からむしろ愛おしい存在で見つけ次第しゃがみ込んで飽かず眺めるのが常だったが、このときはとてもそうする気になれず、どころか奏多の目にそれを触れさせたくなかった。うしろからとぼとぼついてくる奏多はさっきからいかにも眩しげに田面を眺め渡して夕風に前髪をなぶられるに任せていたのが、彼は彼で足元のそれに気がついたもので、「やあ、カエルの卵だ」と思わず漏れた声にはたしかに感激の色が萌していたのに、暁子はなぜかそのときはなんとも思わなかった。そぞろ歩くうち背後の気配が途絶えたのに勘付いて振り返ると奏多の姿は見えず慌てて引き返すと、彼は畦道に生う小鬼田平子の群落に埋もれる形で腹這いになって田のほうへ半身を乗り出し、ピアニカの白い蛇腹の長い管を水へ差し入れて片端は口に咥え夢中でカエルの卵を吸っているのだった。さらには右手をズボンのなかへ入れもみしだくような所作にゆっくりと腰を上下さす動作が加わり、暁子はかける言葉もなくただただ見守るほかなかった。

 発作が起きたと聞いたとき悟はイヤな予感がしたのだった。そしておそらくは暁子もまた。その予感がほぼ的中するであろうことはわかっていて、なぜなら奏多が就学前の幼児だった時分にその先触れとしてよく全身から放った独特の匂いがふいに濃密に嗅がれることがこの二、三日のうちに幾度かあったからである。独特の匂いとはカルメ焼きを焼いたときの匂いに似て、甘たるさの底に焦げつきのある匂いで、それを先触れに奏多は幼少時にはよく発作を起こしたものだし夜は夜で眠ったまま徘徊したものだった。学校を休ませて二日目、悟は真夜中に暁子に起こされた。奏多がベッドにいない、どうやら外出したらしいという、靴がない、時刻は二時を回っている。馬鹿な、とはいうもののむろん心配で、悟は寝巻きのまま玄関を飛び出すがもとより行くあてのあるはずもない。ふるさと農園、とつぶやく暁子の口ぶりはほとんど確信めいていた。霧雨の降る、寒い夜だった。悟と暁子は自転車を連ねてすべての始まりである田圃を擁するふるさと農園へ急いだ。ふるさと農園を一望できる舗装された遊歩道は反対側が腰高の柵を境に土手となって落ち込んで幅二、三メートル深さはふだんはくるぶしまでしかない小川が底を流れ、ここ数日の雨で水嵩が増してときならぬ早瀬の音がしている。いまや霧雨よりなお細かい小糠雨で、田圃とこんもり山の一帯には街灯がいっさいなく漆黒の闇が口を開くとも、化け物とも神様ともしれぬ真っ黒な巨体(ビルなみの)が蹲るとも見え、自転車を降りてこれを押しながら遊歩道の街灯が広げる結界を抜け出してひとたび夜闇へ片足浸せば、ささささささささささささ……と田圃の上が一直線にさざなみ立つというか軽きものが軽やかに駆け抜けるというかそんな音が方々にして、夜目が利き始めると全裸の子どもが一人、いや二人、いや三人、いや四人……と水面を蹴りながらあたかもそこがスケートリンクであるかのような具合でぐるぐると走り回っているのだったが子どもらの下腹部に見えるタラの芽のような性器がピンと天を指しいまにも暴発しそうに赤々と膨れ上がりときおり先から白い煙が漏れ渦巻いて拡散した。
「奏多!」
 叫んだのは妻だった。夫は弱い上になお弱く、目の前で起きていることをにわかには受け入れられず、無意識裡にこは夢こわい夢こは夢こわい夢こは夢……つぶやいている。
「奏多!」
 妻がふたたび叫んだ。夜闇にぼうと
浮かび上がる人の剥き身の白さはましてや子ども、なんとまた心細いものか、子どもらは相前後して一列になると奏多らしきシルエットをしんがりに、するすると糸の手繰られるようにして田を横切り、闇のまた闇こんもり山の出入口付近の袋小路へ吸い込まれていった。こんもり山には山頂(といっても百メートルもない)を経由して裏手に通ずる獣道のような道が踏み固められてあって、平日休日とも午前十時から午後四時までのみ、表と裏の出入口を閉ざす鉄の門の錠は外される。駆けつけると門扉のこちらにも向こうにも裸の子どもたちの姿も気配もなく、こんもり山の闇のまた闇のまた闇は草葉ひとつ乱れず風もなくただただしんと静まり返って、小糠雨はさらに微分化され降るというより舞うというか漂うというかただただしっとりとあたりは冷たく潤っていく。悟はそのとき、カルメ焼きを焼いたときの匂いに似た、甘たるさの底に焦げつきのあるれいの匂いをなおいっそう濃厚に嗅いだ。

 息子の行方は警察案件となり、自宅待機を命じられた二親はまんじりともせずに夜を明かした。翌日は嘘のように晴れ渡ったがあいかわらず気温は低いままだった。昼前になってようやく息子との再会は叶った。息子はあらぬほうにいて、ふるさと農園とは反対側に位置する隣町の住宅地のただなかを、濡れそぼった寝巻き姿でとぼとぼ歩いているところを犬の散歩をしていた主婦に声をかけられ保護された。息子は昨夜のことはなにも覚えていないといい、冷え切った軀を抱きしめるだけで二親もそれ以上なにも問わなかった。息子を寝かしつけ、二親もようやく床に就いた。二人とも会社への欠勤連絡は済んでいた。ところがほどなくして父親も母親も寝床からたまらず這い出すことになる、それはあまりの暑さがために。茹だるような暑さに足元もおぼつかなくなるくらいで、家具や壁やに手をかけ体重を預けてどうにか息子の部屋まで辿り着くと、案の定暑さの根源は息子で、その発熱たるや凄まじく部屋の空気を陽炎のようにゆがませるほどだった。

 カルメ焼きの焦げつく匂いが家じゅう充満していてそのことについて暁子も悟もひとことも触れない。奏多はやがて身を弓なりに反らして硬直し痙攣して白目を剥きアマガエルの卵のような白い泡を吹き始め、舌を噛まぬようハーモニカを噛ませて今治タオルで顎にぐるぐる巻きに固定すると息を吸い息を吐くのリズムで昔懐かしのメロディを奏でる、幼児の奏多がよく即興で奏でた哀切極まりない調べで、暁子も悟も聴くうちにうっとりとなり、背を壁に体育座りしてならんで首を右左に揺りながら鼻歌で唱和し、はては歌詞をつけ歌う。

 ……
 ハルハンセロハン
 ヒンホヒン
 ハルハンセロハン
 ヒンハホン
 ……

 その夜、悟はまたしても妻の暁子に起こされる。奏多がいないという。家じゅう探してもいない、たぶんまた出ていった。行くあてはわかっているようなものだから二人とも今度は慌てなかった。昨夜の夜とは打って変わって熱帯夜を思わせるような蒸し暑さで、ランニング用の服に着替えると、自転車を相前後させてふるさと農園に向かう。田圃とこんもり山の一帯には街灯がなく漆黒の闇が口を開くとも真っ黒な巨軀が蹲るとも見え、自転車を押しながら遊歩道の街灯が広げる結界を抜け出してひとたび夜闇へ片足浸せば、田圃の上を軽きものが軽やかに駆け抜けるそんな音が方々からして、夜目が利いてくると全裸の子どもたちがぼうと浮かび上がり水面を滑るように走り回っているのだったが、こちらの気配に気がついたものか誰からともなく笑い出し笑いながら闇の奥の奥の奥のもっとも濃くなるほうへ一列に吸い込まれていくのだったが、しんがりでちらりうしろを振り返ったのは奏多とは顔つきも背つきもぜんぜんちがう白髪の老人のような子どもあるいは子どものような老人だった。暁子も悟も自転車を田圃のなかへ押し倒すと全力で駆け出して彼らを追った。こんもり山に入る鉄門は錠と鎖とで閉ざされており門扉の上部へいち早く手をかけた暁子の両膝あたりを両腕に抱き取って悟は力任せに押し上げた。門扉の向こうで妻の軀が地面と接触する鈍い音と枝葉の踏みしだかれる乾いた音とが同時に鳴る。妻は山につけられた道をすかさず駆け上がる。悟は鉄扉の縁に両手を掛けてぶら下がったまま進退谷まった。

 奏多を含むであろう裸の子らの一群はどこにも見えず気配すらなく行く手に彼らのいる確証はない。それでも暁子は先を急ぐのだった。汗が噴き出す垂れるのは暑さのせいばかりとは限らなかった。道は狭く、足元は暗いどころではない。周囲は鬱蒼たる樹々に覆われ、月明かりのあるわけでもなく、視力そのものを奪われたような暗さは、幼い頃に押し入れに隠れて引き戸を閉ざしたとたん闇の粒子とでも呼びたいようななにかが渦巻いて目鼻口とありとある穴から侵入してきてかえって見える、無限そのものが見通せると錯覚されてぼーっとするうち心の底に萌してくる冷え冷えとした感覚が最初はなにかわからなくてやがてそれがほかでもない恐怖であると知ったあのときの記憶と重なり、まざまざとよみがえるのだった。自分のする息の音を他人のするそれのように聞いていた。

 それを教えたのは視覚でもなく聴覚でもなく嗅覚だった。れいのカルメ焼きを焼く匂いが濃厚に鼻についた。どうやらそこは踊り場のような広いところで、右手から左手へ流れる冷たい空気の帯のようなものが切れ切れに感じ取れるのだった。暁子は右に進路を取って分厚く積もる葉のなかへ足を潜り込ませる具合で恐るおそる歩を進めたが、もしやすぐそばに、ひとたび落ちれば軽傷では済まない窪か崖が迫らないとも限らないと心臓の拍動は休まらない。今頃になってジョガーパンツのポケットで存在を主張するスマホに気がついて震える手で取り出しフラッシュライトを点灯させる。その明かりのなかに見えたのは崖は崖でも落ち込むのではなく目の前に切り立つそれで、身を低めなければなかを覗けそうにない扁平な洞の口が黒々と見えていた。史跡に指定された横穴墓の一つに違いなかった。洞のなかでカルメ焼きを焼くようなのはもうたしかなことで、暁子は身を屈めるとフラッシュライトで奥を照らし、人の頭ほどの岩がごろごろするなかに白く浮いて見えたのはたしかに人の裸の脚だった。そのまま這い進みなかの広さは立つには十分な広さで、近づいて意を決して見下ろすと、両脚を閉ざすとできる股間のYの字の窪をぬらり光を溜めて覆うのは裂かれた腹から引き摺り出された桃色の腸、ではなく無数の粒々を擁する寒天質のチューブで、これに取り巻かれたタラの芽が小さいながらに聳り立ち白い煙を吐いてやまないので怖気を震って暁子はポケットを探りいつかのために用意してあった和鋏を取り出すとそれへ向かって突撃したがなにやら柔らかいものを踏んで足元を取られ転倒した拍子に和鋏で自分の両眼を図らずも突いていた。

 鉄扉をなんとか乗り越えてあとを追ってきた悟もカルメ焼きの匂いに誘われて横穴墓の手前まで来る。なかがぼーっと燐光を発するのは暁子が落としたスマホが洞内を照らすからだがもとより悟に事情はわからずただただ神秘に誘われる形でスマホのフラッシュライトをかざして覗き込めば、石のごろごろするなかに半身ばかり起き上がる二つの人影が映し出される。
 奏多。
 暁子。
 呼びかけると、二つの影はおもむろにこちらへ首だけ振り向いて、一つは血の涙を流し、一つは口から無数のオタマジャクシを溢れ返らせた。



 丸二日の昏睡状態が明け、奏多は心身とも平生に復したようだった。まずれいの甘たるさの底に焦げつきの感じられる匂いがはたと消えたし、野外観察の行われた日以降のことを奏多はなに一つ覚えていなかった。面会謝絶も明け、入院中は幾人もの級友らの見舞いを受けたが、なかには奏多にカエルの卵を喰らわした悪童らも混じっていて、側から見る限り、久しく睦まじい間柄に見えた。退院後は奏多は彼らを家に呼びさえして、無二の仲間であるかのように互いに振る舞った。当事者どうしにわだかまりがないのなら、悟の義憤になんの意味もないわけだった。彼らや彼らの保護者から謝罪を待ちぼうけるその態度こそ浅ましい。

 家の最寄駅に一年前からタピオカの出店があるのを悟は知っていて、その前を通るたびに気になっていたのだが、とうとう買わず飲まず(食わず)のまま来てしまった。するうち、出勤時に店にシャッターが降りていて、タピオカ屋が昨日をもって閉店したこと、一週間後にそこはスイーツの店になることがラミネートされた張り紙に告知されていた。

 前々からの約束で、その日曜日は朝早くから父と子で海釣りに行くことになっていた。近所の上州屋でハゼ釣り用の釣具一式を二つ、父は前もって新調しておいたものらしい。父は彼の父(つまり奏多にとっての父方の祖父)に幼少時に釣りに連れていってもらった思い出がどうやら忘れられないらしく、いまは施設に入れられている父親をろくに見舞いもせず口を開けば毒親と罵る彼が、その釣りの思い出については輝かしい一幕として語るのである。
「岩場にガラス瓶の破片が散らばっているのに気がつかず、裸足のままその上を踏み歩いて足裏をしたたか切ったんだな。すると親父は着ていたTシャツを両手で引き裂いてそれで止血をしてくれて、来たばかりなのに家に引き返したんだった。俺はね、親父のシャツを台無しにしてしまったことばかり気にしてたんだね」
 車を駐車場から出す刹那、玄関の扉が開き、人が飛び出してきて、車のリアに縋りつく。
「父さん、母さんだよ」
 奏多がいうと、
「何度いったらわかるんだ。あれは母さんじゃない。母さんは、もういない」
 父はそのまま車を発進させた。追ってそのまま往来に躍り出た母は、身じろぎもしないで車を見送った。サイドミラー に見える母の姿は、みるみる小さくなっていった。
 みるみる小さくなっていった母だが、豆粒のような大きさにまで小さくなると、母の姿はそれ以上小さくならず、サイドミラーの中央に固定された。父の車は右折し左折し直進し、また右折左折直進を繰り返し、やがて高速道路の高架にかかった。その間も、母は豆粒の大きさのまま、ずっとサイドミラーの真ん中に張りついていた。リアウィンドウ越しに見てもその姿は見えないが、サイドミラーにならいつもいる。
 サイドミラーを見ればいつでも母さんに会える。母さんも、ずっといっしょだ。
 奏多は安堵した。






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