見出し画像

ねむれる美女

 あれは、警備員のアルバイトで糊口を凌いでいた時分のことです。

 歳末でした。駅前に未明から酒を振る舞う飯屋があって、夜勤明けはモツの煮込みと熱燗で一日を締めくくるのがいつからかの習いでして。で、その日は非番で少しばかり酒を過ごしていて、店の外を足早に通り過ぎる勤め人を眺めるうち、その肩にひとひら、ふたひら、白いものが吸い寄せられて、雪。
 道理で底冷えするわけでした。

 非番の日は宵の口まで寝ているのが常ですが、その日は明るいうちに電話で起こされた。悪いんだけど、欠員が出ちゃって、と警備会社の主任。都下某所のホテルの夜廻りと言われて、断る理由はありませんでした。


 言われたホテルをスマホで検索すると、これが出てこない。幸い住所を控えており、それを頼りにとりあえず出向いたのでした。最寄駅からのバスはとうになく、うっすら雪の積もりはじめた国道沿いを歩くこと三十分、なにやら唐突な感じでそびえる矩形の影が見え、ファサードを確認してはたして主任の言った通りのホテル名でした。

 ラブホテルではありませんでした。電飾の類はいっさいなく、看板がスポットに照らされるばかり。はて、こんな辺鄙なところにビジネスホテル、と見上げた窓のことごとくに常夜灯が灯っている。駐車スペースには、白のミニバンが一台停まっているきり。
 正面玄関の自動ドアが反応しなかった。内のカウンターにもロビーのローテーブルにも傘付きランプが置かれてオレンジ色の光を流している。コーヒー色したガラス扉を叩くと、頬のこけた長髪の男がカウンターから顔を覗かせて、裏へ回れと手振りするようでした。

 駐車場に面した裏口には、搬出入用の両開きの大きな鉄扉があるばかり。それが内に軋むと同時に光が漏れて、現れたのは驚くほど背の高い痩せた男でした。長髪ながら頭皮の透け具合と目のまわりの隈と皺から五十過ぎと踏む。やや身体から浮くように見えるノータイの白のワイシャツにはきちんとアイロンがかけられていて、黒のスラックスにも目に鮮やかな縦の折り目がついていた。招じ入れられた刹那、濃密な香の匂いが鼻先をかすめました。


「あなたも知らされずに来たわけですね」
 後々騒がれても困りますので、と、ここが普通のホテルではなく、いわゆる「遺体ホテル」である旨告げ知らされた。遺体ホテルとは、元は今般の火葬場不足に対応したもので、長期にわたって遺体を保管する施設全般を指すのらしい。しかし昨今、火葬待ちとは別に、身寄りのない遺体や諸々の事情で家に置けない遺体が来ることも少なくなく、献体の仲介を兼ねることもあるという。
「いずれにせよ、うちの泊まり客はみな死人です。そして今夜も満室」

 あなたはここで楽にしていてください、とカウンター後ろの控室に案内されたものの、落ち着いていられるわけもございません。時刻は零時を回ったばかり。生来の好奇心の疼きに耐えかねて、頼まれもしない夜廻りを早くも敢行する。


 すべての客室が施錠されているようでした。内階段を上って三階まで来ると、廊下の突き当たりの一室の扉が薄く開いて、明かりが漏れている。そっと近づいて301号室を覗き込むと、室の中央に先刻の白シャツの後ろ姿が見え、これが床に敷かれた布団の上に四つん這いになって上体をしきりと前後させているものだから、情事を窃視したものと思って慌てて引き下がると、
「湯灌ですよ。こうしてご遺体を清めながら、硬直をほぐしていく」
 作業の手を止めずに男は説明するのでした。すぐさま謝ると、どうせなら手伝ってもらえませんか、と部屋に招き入れる。
 長身の男が身体をどけると、仰向けに横たわる若い女の全裸がそこにあった。死んでいるとは思われず顔を見ると、不自然に黒いこわいような毛髪に埋もれて、肌の色と同じラバーの仮面をつけるよう。
「それは」
 男は言い淀んでから、
「女性は高所から飛び降りたのです。首から上の損傷が激しいため、復元が施されました。眼窩を開けてガラス玉なんか入れますと、大抵は気味悪がられて不評を買いますから、敢えて作り物っぽくしておく。でも」
 男は女をしみじみと眺め渡して言いました。
「身体はきれいでしょう」
「きれいです。まるで、生きているよう」
「そう、血色が差して見えるでしょう。これこそはエンバーミングです。ここから(右鎖骨上部のかすかな傷を指して)動脈に薬剤を注入して、ここから(右太ももの内側を指して)血液を押し出す。これを施すと、死体は蘇る」
 両足を持ち上げてほしいと言われて恐るおそる触れると、薔薇色の血色からは想像もつかない冷たさで。そういえばこの部屋の寒さは戸外と変わらないと気がついたのもこの時でした。男は遺体の右足首に手際よく鈴をくくりつけた。
「これはもう慣例みたいなもの。昔は死体が蘇るなんてことがままあって、鈴が鳴れば駆けつけたものですが、エンバーミングのあとで生き返るなんてあり得ない。でも、まぁ、鈴をつけないと作業終了とは心理的になりにくい」
 遺体に着衣して棺に戻すと思っていたら、それをしないで部屋を出ていこうとするので、遺体はそのままでいいのかと聞こうとして、忘れるところでした、と男は押し入れを開けにいって寝具を一式抱え出し、それを隣に敷き始めたものだから、ここで寝るのかと目を剥くと、
「まさか。でも、お望みなら、どうぞ」
 男はそう言って笑うのでした。


 控室で本を読んでいると、裏の鉄扉を激しく叩く音が立った。時刻は二時五分前。何かあったらそうしろと言われた通り男のケータイに連絡する。
「どうされました」
「裏口に来客が」
「時間通りですね。お通ししてください」

 鉄扉を内に引くと、身を切る冷気とともに雪のひらが無数に舞い込みました。
 それはかなりの高齢者と見えました。ツイードのジャケットに駱駝色のマフラー、深緑のコーデュロイのズボンを召し、頭にピンクの毛糸の混じった灰色のハンチングを被るあたり、金持ちの品の良さを感じさせた。用向きも言わず、名乗りもせず、案内されるままロビーに来て、帽子も上着も手袋も何も取らずにソファーに浅く腰掛ける。じき長身の男が現れると、やおら立ち上がり、男のあとについていきました。


 エレベーターは三階で止まったきり。時刻は二時三十分を回ったところ。どうにも胸騒ぎが収まりませんで、別に立ち歩きを禁じられたわけではなかったと思い出して、内階段を上って三階まで来てしまう。
 外が雪だと、どうしてああも建物のなかは静かなんでしょうね。廊下もまた底冷えする寒さで、吐く息の白さに前が見えない。廊下には臙脂の絨毯が敷かれ、天井に照明はなく、足元に点々とついた灯が奥へ導いている。歩を進めるにつれ、濃くなる香の匂い、そしてかすかに耳に触れる鈴の音。301号室の前まで来ると、明らかに扉の向こうから、大になり小になりしながら鈴の音が鳴っていっかな途切れなかった。ドアノブに手をかけるも、施錠されている。にわかに義憤めいたものに駆られて声をかけようとした刹那、肩に手が置かれて、振り向くと例の白シャツの男が立っていました。
「どうもあなたは、覗きの趣味がおありのようですね」
「でも……」
「世のなかいろんな趣向の人間がいて、いろんな需要があるわけですよ。ドライに考えてみてください」
 男の手に力がこもる。
「くれぐれもここで見聞きしたことは他言無用に願いますよ。ろくなことになりませんから」

 男の寝息が背後に聞こえおりました。
 使い古された黒革のソファーに長身を埋め、腕を組み、不動の姿勢で仮眠するよう。ほんとうに眠るか定かでありませんでしたが、もとよりこちらはまんじりともしない。

 四時前でした。エレベーターの動作する気配があった。扉の開く音が上からして、何者かが乗り込む。先刻の老人に違いない。そう思って耳を澄ましていると、はたしてエレベーターは降りてきた。扉が開き、その後しばらく無音が長引く。なにやらうかがうような。

 シャン。
 鈴の音がひとつ立った。
 シャン。シャン。
 音の間を詰めながら、次第に近づいてくる。
 カウンターの前まで来たものだろう、ふいに音が止んだ。
 控室の扉を薄く開けて見ると、はたしてカウンターの向こうに人影がある。

 あの老人ではありませんでした。
 黒髪の女。明かりはカウンターの端に置かれたテーブルランプひとつきりで、たださえ暗い上に黒髪に埋もれてよくも顔は見えませんでしたが、むしろ見まいとする心理が咄嗟にはたらいたからかもわかりません。それでも女の着たトレンチコートの襟と肩に散ったどす黒い染みが、眼底に焼き付いて離れなかった。かける言葉も見当たらないまま引き寄せられるようにして前へ前へと踏み出されたもので、カウンターの天板とその上に置かれた女の指の爪が目近に見えた瞬間、肩を引かれて我に返った。
 男がうしろに控えていた。
 再び向き直った時には、もう女は玄関のほうへ歩き出していて。自動ドアの開くのを待ってから、雪降る戸外へゆっくりと出ていった。女は裸足でした。こちらの疑念を察したかのように、
「靴はとうとう見つからなかった」
 と独りごちるように男は言うのでした。

 それからしばらくもしないで、玄関のガラス戸がコツコツ叩かれました。
 揃いの綿入りベンチコートを着込んだ男二人がガラス越しに何か言っている。平身低頭しながら白シャツの男が、手振りで裏へ回れと指示する。こりゃ相当積もるよ、電車も止まりますでしょうか……等々、雪の状況をひと通り互いに尋ね答えしてから、
「で、ホトケさんは」
「いつもの301号室でお待ちです」

 そのホテルで見聞きしたすべてを、今日の今日まで誰にも話したことはございません。ただ後日の報告として、ネットで検索できない旨ホテルに伝えたほうがいいのでは、と主任には助言しました。すると傍で聞いていた先輩アルバイトが、
「何言ってる。あそこはとうに潰れたでしょうが」
「いや、でも、こないだ夜廻りに行ったんですよ」
「いやいや、何とぼけてんの。**駅から三十分ほど歩いた国道**沿いのホテルだろ。身元不明の死体が何体も出てきて、テレビがいっとき大騒ぎしたでしょうが」
「いつよ、それ。そんな事件、あったっけか」
「かれこれ一年前」
「そうだっけか……。あすこのオーナー、いつも礼儀正しいから、そんなホテルだったとは思いも寄らなかったな。いや、ヘンだぞ。俺、電話で誰と話してたんだ? それ、犯人は上がったの?」
「あのノッポの痩せ男、ありゃ、吸血鬼だよ。顔に書いてある。しかし事件はたぶん迷宮入りだよね。オーナーも従業員も行方不明なんだから。出てきたのは身元不明の死体だけ」
 そんな事件、聞いたことあります? いくらテレビを観ないとは言っても、死体が何体も出てきたなんてニュースなら、どこかで必ず目に触れているはず。
「じゃあ、主任」
 危うく「遺体ホテル」と言いそうになって慌てて口をつぐむ。主任は何やら記憶を辿るような内省的な顔つきになって、みるみる蒼白になった。
「そう言えば、欠員の仲田さん、どうされたんです」
「そうなんだよ」
 主任は言い淀んでから、
「あの日、このホテル、ヤバいっすよって仲田君から電話があってさ、何がよって聞き返したら、電話切れちゃって。あれからずっと、音信不通」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?