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家霊

 物件探しとは、胸躍るものである。図面の間取りからあれこれ想像して、いざ内見という段が、またなんともたまらない。

 当然のことながら、家には家の個性がある。いつからか、それを家霊と呼ぶようになった。不動産屋の若くてきれいな娘がいくら立地や内装をほめそやしたところで、しっくりこないものは、こない。「ここは築年数も古いですし、外の音もよく聞こえますから」とくさされた物件にかぎって、後ろ髪引かれることも少なくない。そして、きまって最初に見た物件こそ、いい。何日と迷うということなどかつて一度もなかった。

 めぐる物件数は、不動産屋による。町をぶらついて、出来るだけ明るくてこぎれいな店舗を、くらいの見当はつけて飛び込む。あとは運任せである。言い値より高い物件を勧めてくる不動産屋もむろんある。明らかに売れ残りのそればかりを見せる不動産屋もある。しかしなかには、こちらの想像を上回る良き物件を用意してくれる不動産屋だってある。そしてきまって、最初に見せられる家なり部屋なりが、一番いい。



 云うまでもなく、今やとても便利な時代。ネットで物件を探せてしまう。いくつかめぼしいものをあらかじめ控えておけば、どこの不動産屋に飛び込んでも内見させてくれる。自分のところで管理しているのではない物件を紹介するにあたっての、不動産屋の取り分とはどうなっているのか。ふと思うことがある。手数料一ヶ月分、と記載されてあるのがそれに当たるのか。それを、管理会社と紹介会社とで折半するのか。調べればすぐにわかるようなものの、今日まで調べずにいる。ふと思ったことは、すぐに忘れてしまう。

 子どもたちが大きくなって、さすがに三世帯の同居は苦しくなってきた。軋轢もしばしばで、出ると決めてから、早速ネットで検索すると、築年数不詳の古民家がじき見つかった。子どもたちの学区が変わることが一番の懸念材料だっただけに、近場に古民家とは物怪の幸い、日中下見をしにいくと、これがバス通りになるような往来の激しい二車線の古街道からちょっと奥まったところ、プレハブの事務所なんかが立て込む陰に隠れるようにして、入母屋のいかめしい瓦屋根と、日に焼けた燕脂の壁とが覗いた。

 玄関までの飛石が土に埋まって、露地には草が茫々である。蛇苺がところどころ赤い実をつけていた。玄関の両脇に、伊呂波紅葉と山椒の低木が植わって、枝打ちをしないから、葉が枝に密に詰まって窮屈そう。玄関の右手にところどころペンキの剥げた胸の高さの鉄柵が設けられてあって、柵の一画が切られて門扉になっている。押すとすうっと開いて、いざなわれるようにして、これまた深い草のなかへ足を踏み入れた。れっきとした不法侵入である。それを咎めるように、たちまち襲来する蚊の大群。

 建物の奥行きは案外あって、踏み均された中央の露地を、左右に旺盛に生う毒溜が今にも覆わんばかりになっている。建物の裏手が十坪ほどの庭で、四方を新しい家々に囲まれて、昼日中の陽を受けて輝いていた。ほしいままに繁茂した草木の緑は、目に眩しいくらいだった。奥に紫陽花があって、青い花房を重たげにかざしてたわんでいる。中央に屋根の高さまである梅の木があって、たわわの実がもう黄色くなりかかっている。足元には無数の実が朽ちて転がった。右隅にはこれまた山椒の木が植わっていて、これなら揚羽蝶がよくおとなうだろう。
 蚊の羽音もいつか絶えて、庭はしんと静まりかえっていた。草木は茂り放題と見えながら、どことなく人の気配がする。動線に草が生えていないことからもわかる。雨戸は閉てられておらず、ガラスから部屋の内が覗けた。すべて板の間に変えられているようで、清潔で、明るい印象を受けた。屋根に通ずる急な階段があって、屋根の上に、干物をするのだろう露台が見えた。


 後日、妻子を連れて内見した。玄関が思いのほか広く、上り框の材はたしかなものだった。それよりなにより古い家の匂いに、たちまち涙腺が緩む。
「探検しておいで」
 そううながされ、靴を脱ぐなり走り回ると思いきや、子どもたちは三人ともあたりを神妙に見渡してその場を動かない。買い物へ行こうと半ば嘘をつき、二親してサプライズを用意したつもりが、目論見は外れた。子どもたちは明らかに警戒していた。無理もない、と思い直して先陣を切ると、まだ決まったわけではないが、と前置きして子どもたちに事情を説明する。
 上から小五、小三、年中の三人の子どもたちは、終始おとなしく、風呂場やトイレを案内しても心ここにあらずのふうだった。ここを君の部屋にするのはどうだろう、と甘言しても乗ってくるふうでない。対して二親は高揚するいっぽうで、やはり物件は一軒目で決まるとは、互いの声音で察せられた。
 古い家ならではの、壁一面に開いた天袋に押し入れ、そして地袋を見て、収納もいっぱい、と妻が感慨するかたわらで、子どもたちはなにやらうかがうようにして、壁面に視線を走らせていた。
 庭に連れ出してようやく緊張も解けたかに見え、屋根に登る階段を誰が先に登るかで早速もめた。チビは無理、と制するのを聞かず、次女をまんなかに据え、さきがけを長男が、しんがりを長女が務めて露台に上がった。平家だから、眺めはさほどでもない。しかし瓦屋根の広がりを間近に一望するのは、それなりに壮観である。屋根瓦の隙間に油蝙蝠が巣食うかもしれないよ、と下から父親が脅かすと、長女が悲鳴を上げた。



 借りたいと申し出てから数日して、管理会社を名乗る人物から電話があって、お貸しするにあたって二、三説明したいことがあると云う。
 指定された日時に出向くと、坊主頭の若いのが、挨拶もそこそこに物件の説明を始めた。築年数不詳であること、三年前に弊社が管理することになってリフォームしたこと、先月末まで人が住まっていたこと、そして、古い家なので床や壁に断熱材や防湿材などは使われておらず、前の住人いわく、夏は湿気に冬は底冷えに悩まされるらしいこと、人によっては往来のバスの音が気になるらしいこと等、およそ思いつくかぎりの負の要素をならべ立てた。夫婦して、夏は湿潤、冬は寒いは当たり前なのでは、という顔して聞いている。相応の対策をするに如くはないが、それより平家の屋根瓦越しに聞く驟雨の音はどんなだろうとときめくくらいなもので、夫婦そろって酔狂だから、たいていの不如意には堪える自信があった。
「ところで」
 質問はないかと問われたので、した。
「おそらく洗濯室と思われる一画の天井が剥がされていましたが、あれは、工事中ということで」
「そうです。あそこは何年か前に建て増した部分のようで、ジョイントにどうしても隙間ができてしまう。そこから小動物が入りましてね」
「ハクビシンですか」
「そうかもしれないし、ネズミかもしれないし、正体はわかりません。ただ、屋根裏に動物が入れるような隙間はないようにしますんで、ご安心ください」
「床下はどうです」
「床下も大丈夫です」
「しかし、屋根裏に居ついた小動物がなんだったか、せめてわかるといいんですけどね。妻は鼠と蛇がダメなのです」
「方々に殺鼠剤を撒いたり仕掛けをしたりしてこちらも色々やったんですけど、ついに捕獲にはいたらずで。ただ、どうも庭木の枇杷が目当てなんではとなりましてね、それで枇杷の木を切ったら、物音はぱたりと止んだようです」

「枇杷の木を切られたのは痛恨事だね」
「まったく、なんてことをしてくれたんだ」
 夫婦して枇杷の木を切られたのを心底口惜しがった。


 なにぶん大工仕事ですから予定が読めないんです、と云われ、以来、音沙汰のない日が続いている。このままでは紫陽花は朽ちるし、梅の実はみな落ちてしまうだろう。暗い廊下に梅酒の樽瓶をならべるのは、来年に持ち越しだろうか。庭を菜園にするにしても、種植えの機を逸してしまう……。取らぬ狸のなんとやらで、このところ、なんとも気忙しいのである。

「あの家なら猫も飼える」
 今のままでは、同居人が動物嫌いなので犬も猫も望めない。年端のいかぬ子が、生まれたての犬なり猫なりをかまう絵が見たくてこちらはもう仕方がない。
「あの家ならお友達も呼べるよ」
 子どもたちは大喜びである。
「でもね」
 次女がためらいがちに云った。
「あの、たぶん、座敷童だと思うんだけど、あれの説明をお友達にするのが難しいなって、思ってるんだよね」

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