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鬼灯

 鬼灯を、買おう。
 日めくりに手をかけるなり、男は思った。

 暦が七月下旬を告げていた。  
 不意に、鬼灯のことが思い出された。
 あれはどこだったろうと記憶をたどるうち、一度きり行った坂の上の朱門を思い出した。

 有閑の身になって、学生時分の気楽さがよみがえったからなのか。鬼灯の鉢を買い求めるなどの酔狂をして、提灯で飾られた坂を、足取り軽く降りてくる自身の姿が見えた。女の家へ急ぐのらしい。記憶の奥底から召喚された女は、三十年を経て、あいかわらず二十歳前後の若さである。

 卓袱台に地図を広げ、目的地までのおよその道順を頭に入れてから、外出する。十キロ程度なら歩いて済ます。荒川を渡り、隅田川を渡り、あとは西へ西へと道なりに。二時間、三時間の道行など苦ではない。

 平日の昼過ぎというのに、坂の上の寺の境内はにぎわっていた。老いも若きもいる。浴衣姿の男女もある。ところ狭しとならべられた鬼灯の鉢を物色して、男はもう先刻から選びあぐねている。

 ぽつ、ぽつ、と水の玉が、軒から外れた鉢の葉を打って転がり、見上げれば額や頬を打ち、お堂のほうからさあっと音が立ったかと思うと、たちまち雨脚は繁くなった。男も女も手にしたものを頭上にかざして、門のほうへ走ってくる。門の向こうの坂を、駆け降りてくる。
 皆が笑い顔であるのを、男はいぶかった。
 思い出せそうで思い出せない面々が、少なからずまぎれているような気がした。

 雨に打たれながら、男は鉢をひとつ求めた。
 鉢を手に朱門をくぐろうとして、視界の隅に男と同じように驟雨に打たれる立ち姿が見えた。
 向き直ると、それは鬼だった。

 お堂の前に立ち尽くし、こちらに背を向けている。
 鬼は全体青かった。
 薄汚れた腰巻ひとつのほかはほぼ全裸で、見上げるような巨躯がすぐそこで雨に打たれているにもかかわらず、ものを売る男も女も誰も気がつかないようで、大童になりながら、軒外れの品々をテントの下にしまいにかかる。

 鬼はいかにも上背はあるが、肩も背も痩せて骨が浮き、脚も脛にかけて細っていた。
 鬼の頭上にほむらが立って、雨を受けて濛々と烟る。
 それはいっかな消えることなく、ゆらゆらと悶え続ける。


 男はアパートにひとりで暮らしていた。
 いわゆる事故物件だった。前の住人が横臥のまま亡くなり、発見されるまで日を要したという。病死か老衰か、貸主に尋ねるまでもなかった。自然死であれば、男にこだわる理由はなかった。そのために賃料の安くなることを、むしろ幸運とさえ思った。

 係累とはみな縁が切れていた。
 親はとうに死別し、妻子もとうの昔に男のもとを去った。
 係累のないことを、寂しむこともない。むしろいまの身軽さと気軽さを愛した。大病してからは、身体も軽くなった。魂さえ軽くなった気がする。人からは、白く抜けたみたい、といわれるようになった。

 大病してからしばらくもしないで、長年勤めた仕事も辞めた。
 いまは駅前のもつ焼き屋で串物を焼くなどの手伝いをしている。五十を過ぎた見習いで、物覚えが悪く、なかなか慣れない。店の人間はもとより、客すらも彼には風当たりが強いような。しかしそれもまた、おのれに似つかわしいと思えば、なにほどのことでもなかった。一日一日を無事暮らしていければ、男はそれで満足だった。

 卓袱台に鬼灯を置くと、西向きのガラス戸のカーテンを引いた。ズボンのポケットからあり金を出して卓袱台に置き、それから薬罐に火をかけに立った。
 白湯を啜りながら、西日に映える赤い実を飽かず眺めた。

 部屋は閑散としている。
 六畳の和室の真ん中に卓袱台があり、そのほかの家具調度はなかった。天井の灯さえ、裸電球だった。テレビもない。冷蔵庫も洗濯機もない。米は鍋で炊く。服を洗うのは風呂場で足りた。真新しい畳ばかりは、贅沢といえば贅沢だった。しかしそれとても、前の住人が孤独死を遂げたからであり、元手はかかっていなかった。

 男に財産と呼べるものはなにもなかった。
 妻子に託す金を作るため、マンションも売った。車も売った。それを機に、あらゆるものを手放していった。自室に収まりきらなかった蔵書も、CDもDVDも、唯一コレクションする趣味を持った万年筆も、残らず人にやった。退職すると、スーツから靴から着るもの履くもの大半を捨てた。アパートに引き移る際、持っていたのはほとんど空のリュックで、なかには預金通帳と印鑑とカードがあるばかりだった。

 油断すると手元に残るのが本だった。
 往時のような、いつか読める、を当て込んだ買い方はしない。古本屋があると、店外に置かれたラックにある虫食い・日焼けの甚だしい本をあさっては、つい日本の古典に手が伸びる。そんなふうにして買い込んだ文庫本が数冊、押し入れの段ボールのなかに整然と並べられてあった。

 ほおずきを鬼灯と書くについては、お盆に霊を案内する提灯に見立てたとする説がある。
 鬼とはこの場合、死者の謂いである。
 ナス科の植物だが、熟して赤い実にも毒が含まれて、江戸時代は堕胎薬として服用されたという。
 卓袱台の上のそれはところどころ青いうらなりだが、西日を浴びて、うちに火灯すようである。いずれの霊が誘われてくるものかと、男はぼんやり思っている。


 注文が矢継ぎ早に叫ばれて、教わった符牒でもって頭のなかでそれを繰り返す。串を火にかけながら、焼き加減について叩き込まれたことを口のなかで復唱している。するうち、右も左もわからないようになって、途方に暮れかかる。

 まさか、これほどまでにもたつくとは思わなかった。マルチタスクには慣れているはずだった。

 高度な知識と豊かな経験を必要とする複雑極まりない難局の数々を、いとも容易く切り抜けられるようになった自身に舌を巻くことさえ少なくなかったここ数年なのに、こんな単純な、と軽んじないではいられなかった仕事にさまで手こずらされて、屈辱でないはずがなかった。さらには屈辱の上塗りで、こちらの遅滞はけして見逃されず、思わぬところを背後から棒かなにかでしたたかに突かれて、そのたびにうめき声が漏れた。

 店の者たちに親方と呼ばせる店主は、界隈の飲み屋の大半が店子であるところ、自分は店のオーナーであるというのがなにかにつけ自慢で、今般の疫病禍で休業を余儀なくされ、自治体から埋め合わせの支援金が下りても家主がすべて懐に入れるため、店子は干上がるほかなく、それであれも潰れたこれも危ないと耳ざとい客から聞かされても、ほれ見たことかと得々としていられるような人間だった。

 それでも、開店前の日の高い時刻、店前で掃き掃除をしていた店主に恐るおそる声をかけ、いつ貼られたともわからない手書きの薄汚れた貼り紙を指して、雇われたいと男が申し出たとき、ずいぶんと親身にこちらの事情を聞いてくれ、しまいには男泣きして、俺がぜんぶ面倒見てやるからと、豪気なことをいった。



 その客が焼き台のすぐ前に座ったとき、男はにわかに身をこわばらせた。

 少しでも動揺が見えれば、背後の目にはもたつきと取られかねない。
 かろうじて平静を保って黙々と串を焼き続ける。

 その客は相当の古株らしく、なんの恩義があるのか親方は例外的に甘やかすようだった。
 原則、その店の客は余計な口を叩かない。上機嫌の酔客ははなから断られるし、店で大声を出そうものならつまみ出される。

 しかしこのキヨさんと呼ばれる初老の客は、すっかり出来上がってカウンターに座りつき、カウンターの内で立ち働く親方相手にぞんざいな口を利くし、その聞こえよがしな感じがなんとも神経に障る。キヨさんが店にいるのを認めてすぐさま踵を返した客を、すでに数人見た。

 そして焼き台の横にひかえて親方の手つきを注視するこちらを目ざとく見つけるなり、片眉をぐいと上げてからんできた、あんたはだれと。
 年齢はいくつ、どこの出身、どんな仕事をしてきた、独り身か……一メートルかそこらしか離れておらず、さすがにキヨさんも声を押し殺しているが、かえって周囲の注意を引くのも道理で、適当に受け流していると、彼の質問に対して答えたのは、あろうことか親方だった。

 暗唱した事柄を答えるかのようなその口ぶりにいらだちがにじみ出ていたが、むろんキヨさんに対してではなく、ほかならぬ男の煮え切らなさに対してなのは明らかだった。

「なんだ、バツイチのエリートか。バカにしくさって」

 初老の客は押し黙り、しばらくもしないで席を立った。
 初老、と形容しているが、自分とそう変わらぬか、あるいは自分よりよほど若いかもしれないと、その背中を見送りながら男は思っていた。

 件の客が、先刻から皿のものに手をつけず、コップになみなみと注がれた生の焼酎を時折すすりながら、こちらの手元をじっと観察している。

 粗探しする目だとはわかる。

 それと意識するとさっそく手元はもつれかかるから、男は客の存在を脳裏から消す。長年組織の人間だったから、そうした手管には通じている。

「あせ」

 いわれて男は顔を上げた。
 愛想笑いを浮かべたものの、マスクの下では相手にはわかるまい。
 客はいたって真顔。

「汗」

 まったく変わらぬ口調で客はいった。

「はぁ」

 返事をしたつもりだった。

 自分が汗まみれなのはわかっている。
 こちらをねぎらうつもりだろうか。

 まさか。

 からかうつもりなら、「汗」を指摘することでどういう屈辱を与えたいのかがわからない。

 測りあぐねていると、

「◯◯くんさ」

 と男の出身大学で呼びかけてきて、

「汗がさ、垂れたの。焼き鳥に」

 そんなはずはなかった。
 頭には手ぬぐい、顔の半分は店の屋号をあしらった布マスク、その上で、肘を伸ばして焼く、返す、を呪文のように心に唱えていたから、汗のかかりようがなかった。
 焼き物の脂が滴って、炭が火を噴き、煙が濛々と上がる。

「ほら、また、垂れた。それ、客に食わすの」

 男は応じなかった。
 黙々と焼き物に集中した。

 とんだいいがかりに対しては、まともに反論しようもない。
 すると、先刻とはうって変わって顔を紅潮させた客は立ち上がりしな勢いで木製の椅子を後ろへ倒し、その音で周囲の耳目を集めてから、

「おい、そんなもの食わすのかと、オレがきいてる」

 声は震え、最後は裏返った。
 わななきながら叫ぶ。
 そう聞こえた。
 どんな屈辱を味わえば、五十、六十の男がこんな声を出すものだろうか。

 男が呆気に取られていると、アキレス腱のあたりをしたたかに蹴られるかして、直後に横ざまにはじかれた。親方が焼き台の前に身を入れて、ちょうどよく焼き上がった串を右手の指の股ではさんでさらうと、足元の青いポリバケツに投げ入れた。呆然とたたずむ男に顎をしゃくって奥へ行けと指示し、客には深々と頭を下げて詫びる。

 抑えようもなく反発が萌して、親方の耳のあたりを憤然と睨めつけると、男は我ながらどうかというほどの太々しい足取りで厨房へ下がった。

 串に肉を刺す者、焼き物以外の料理を作る者、そして客から注文を取り合間に皿を洗う者の三人が奥にひしめいて、黙々と作業する。

 肉を刺す者が親方の片腕の古株で、年は四十前後、短躯だが横に広い体格の持ち主で、なにやら後ろ暗さをただよわす目をしていた。これが男を含む配下の三人を仕切っていて、今日はもうあんたは終いだ、と目を合わせずに告げた。明日開店前に詫びに来るよう、付け加える。

「どんくさ」

 と魚をあぶっているもうひとりの、こちらはよほど若く、背高痩身で、白蠟のような皮膚をしたのが、背中でせせら笑った。注文取りの女は、三十前後と見えるフィリピン人で、客にも店の人間にもおしなべて愛想が良く、片言の日本語でよくしゃべりもするが、男とはいっさい口を利かず、挨拶すら返さず目も合わさずで、男がそこにいないかのように振る舞い通すのだった。

 これが案外男にはこたえた。

 とくにまとめる荷物があるわけでもなく、白の上っ張りを脱いでそれに頭の手ぬぐいとマスクとをくるんで紙袋に入れ、これを持ち帰って毎回自分で洗う規則だが、男は帰り際、勝手口に置かれたポリバケツにそれを放り込んだ。



 所有するものは極力切り詰めて、余生を生きるようにして生きる。

 死ぬまで生きればそれでよし。

 そういう覚悟で臨めば、仏教にいう三毒、すなわち貪欲、瞋恚(しんに)、愚癡(ぐち)の煩悩からいずれ解放されると男は思っている。

 貪欲とは必要以上に求める心であり、瞋恚とは怒り嫉み憎しみの心であり、愚癡とは真理を解さない愚かな心のこと。

 五十にして天命を知るの教えもあるが、天命などおよびもつかない。瞋恚さえ克服できれば、俺の人生御の字だろうくらいに思っている。

 コンビニに立ち寄り、弁当と飲み物を持ってレジに向かうと、思いがけず五、六人の行列ができている。

 店員は見たところふたり。レジはふたつあるのだから分担すればよさそうなものの、接客する店員の横にひとりが張りつくようなのは、接客しているのが新人だからなのだろう。新人を見守りながら、その先輩格の女の店員が気のなさそうな声で、「セルフレジもご利用ください」と繰り返す。

 見れば、中央にもうひとつレジがあって、バーコードリーダの持ち手が客の側に向いて置いてある。しかし誰も店員の呼びかけには応じず、時間帯も時間帯だから列はあれよと長くなっていく。

 男は気を利かせたつもりで列を外れ、セルフレジの前に立った。画面の誘導にしたがって自分としては遅滞なく進んだ。支払いの段になって、「電子マネーのみ受け付けます」と表示され、スウェットパンツのポケットに小銭と一緒に常備するSuicaを取り出してカードリーダーにかざすも、これがいっこうに反応してくれない。

 あれこれカードのかざす向きを変えたりひっくり返してみたりとするうち、ビープ音が嘲笑うように鳴って、画面に「もう一度はじめからやり直してください」と表示される。

 三度繰り返してうまくいかず、しかしそれにしても忌々しいのは、カウンター越しにいる店員が、あたふたするこちらを見かねて助け舟ひとつ出すでもなく、無視を決め込んだことだ。

 悪気はなかったかもしれない。

 ちょっと、と窮状を知らせれば済んだかもしれないが、男の側で遠慮してしまった。自分より年若い、それも女を上から呼びつける柄ではもとよりなかった。

 あきらめて列に並び直し、道理で、と納得しはするものの、それならなぜ「セルフレジもご利用ください」と店員はあいかわらず繰り返すのか、いよいよ腑に落ちなかった。

 しばらくして、若い男がセルフレジの前に立った。
 案の定、うまくいかない。

 自分の手際の悪さのせいではなかったと安堵するのも束の間、れいの女の店員が、四苦八苦する若い客に声をかけ、隣のレジに誘導して会計を済ましたのには心底面食らった。

 たちまち内に憤怒が萌した。

 そこから列が二手に分かれて、客は次々とさばかれていった。

 ふと横を見ると、商品棚の切れ間の向こうに飲料品を置いたガラス戸が見え、そこにうっすら映る自身の姿を男は見た。

 腹の出た、洋梨体系のさもしい中年男がそこにいた。髪は白いものが優勢で、瞼も頬も顎も下に落ちかかっている。胸も腹も尻も腕も、なにもかもが下へ落ちかかっている。己の姿に不意打ちされるのが、この頃ではなによりも恐怖だった。しかし男はこのとき、さもしい中年男のさらに向こうに、別の姿を透かし見ていた。

 鬼だった。

 腰巻ひとつの裸の鬼が、そこにいた。

 のしかかるような上背だが、肋が浮いて、足元へ行くほど細って、脛は女のそれのように心もとない。

 青鬼の青は、ほかならぬ瞋恚の色。

 男はふたたび列から外れると、弁当と飲み物を元の場所に戻しに行き、逃げるようにして店を出た。


 吉野の山奥で上人が鬼に出逢う。

 たけ七尺ばかりの鬼、身の色は紺青の色にて、髪は火のごとくにあかく、くびほそく、むな骨はことにさし出でて、いらめき、腹ふくれて脛はほそくてありけるが、このおこなひ人(上人)にあひて、手をつかねて泣くことかぎりなし。

「あなたはどういう鬼でしょう」

 上人が問うと、鬼は答える。

「わたしは四五百年昔は人間でございました。それが、ある人に恨みを残したばかりに、このように鬼の姿となりまして、思うようにかたきを取ることも叶いまして。それでも飽き足らず、その人の子も孫も曾孫も玄孫も取り殺しましてね、いまとなっては殺す相手もなくなりました。こうなっては、殺された彼らの生まれ変わった先にまで取り憑いてやろうと思いはしたものの、どこへなにに生まれ変わるともわかりませんで、かように甲斐のないような次第でございます。我ひとり、尽きせぬ瞋恚のほのほに、もえこがれて、せんかたなき苦をのみ受けはべり。かかる心をおこさざらましかば、極楽・天上にも生まれなまし。ことにうらみをとどめて、かかる身となりて、無量億劫の苦を受けんとすることの、せんかたなくかなしく候。人のために恨みをのこすは、しかしながら我が身のためにてこそありけれ。敵の子孫はつきはてぬ。わが命はきはまりもなし。かねて此やうをしらましかば、かかる恨みをばのこさざらまし」といひつづけて、涙をながして、泣く事かぎりなし。

 そのあひだに、うへよりほのほやうやうもえいでけり。


 男は全裸になると、風呂椅子に腰かけて、浴室の鏡に対面した。
 近眼が強すぎて、よほど顔を近づけなければ自分の顔の造作はわからない。

 仕事を辞めてからこちら、髪は伸ばすにまかせて、後ろはゴムで結べる長さになっていた。いっそ伸ばせるところまで伸ばそうと思いながら、荒川を東に渡って以来、男が最初に店で買い求めたものがバリカンだった。

 生まれてこの方、男は坊主にしたことがなかった。そしていま、髪をすっかり刈ることに魅せられている。それをなかなか実行しないのは、ひとえに男のものぐさによった。

 鏡を間近に覗き込む。

 こうして見る己の顔に、年齢の太さは感じられない。童顔、と見るわけではないが、長年付き合ってきた顔に変わりはない。

 人の年齢をあからさまにするのはたとえばなんだろう、と男は目尻に寄った皺を数えたり、こめかみから頬にかけてまだらの色素を指先でなぞったりするうち、もうこの子の赤ちゃんのときが思い出せない、あんなに四六時中離れずにいたのに、と感慨する妻の顔が不意に浮かんだ。

 やおら片方の手で耳たぶを折ると、右の耳まわりを後ろからなぞるようにして、男はバリカンを走らせた。

 まるで砂銀をまぶしたよう。すっかり短く刈り込まれた頭を何度となく撫ぜまわして、その感触にいつまでも飽きずにいる。切り終えた毛をシャワーで排水口に追い立ててから、両手にすくってレジ袋に入れる。白いものの多さにあらためて目を剥く。

 全身についた細かい毛を洗い流し、次いで石鹸の泡を塗りたくると、頭にも同じ泡を掻き立ててから、天辺から一気に湯を浴びる。もう少し水勢のほしいところだが、贅沢はいわれない。

 風呂におけるいくつかの工程の省かれた身軽さを、勝利の感覚のように味わっていた。



 日はとうに没して、明かりを灯さぬ部屋内は、青に沈んだよう。

 下着一枚身につけたばかりの男が、卓袱台の前に座りつく。卓袱台の鬼灯は、その実を茫と浮き上がらせて、そこだけ暮れ残るように男には見えた。頭に手を置いて、そこにも鬼灯の赤さを感じた。

 老いてなお、胡麻塩頭ばかりが暮れ残る。赤い火が、もう何百年とそこに燃えている、と思って、男はほくそ笑むようだった。




【参考文献】
『宇治拾遺物語』角川文庫

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