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想像力の水平展開について

 小さな骸骨が二体、宙に揺れていた。

 通勤時に通る家の玄関先に植わった木の枝に、それらは首のところで結びつけられていて、風になぶられていた。ハロウィンの飾り付けとじきわかるのだが、疲れた目には一瞬ギョッとなる。木の根方には、大きなかぼちゃと魔女のフィギュアが控えていた。夜には内から明かりが灯る。

 二体の骸骨を見上げるうち、思い出されたのはデュ・モーリアの『レイチェル』の冒頭。主人公の少年時代の思い出が語られる場面で、庇護者の従兄弟と見上げる先に、男の死体が揺れている。それは辻に置かれた絞首台で、見せしめのため往来の人の目に晒される時代があったのだ。骸は町で見かける誰かで、主人公は世の儚さを思ったのかもしれない。あるいは、これから起こる悲劇を予感したのかもしれない。  
 詳細はもう覚えていないが、寒空を背景にすっかり葉の落ちた樹々が田舎道に並んで、少年と青年の二人の影と、その視線の先のギャロウズに吊り下がる黒い影とが、何かの悪夢絵のように脳裏に蘇ったのである。

 すると今度は、つま先の丸い、白と茶色の革を張り合わせたよそゆきの女の靴が目の前に揺れていた。その向こうから近づく人影があって、宙に浮いた二足の靴からその人影にピントが合わさる。
 母はその白と茶色のバイカラーの靴を履いて、気落ちする息子をピクニックに誘ったのだ。塀の上に登って、「生まれた喜びを、ダンスで神様に伝えなきゃ」とステップを踏んだその同じ足が、今息子の目の前で揺れている。時代はナチス政権下。母はユダヤ人の救済に奔走した人だった。子どもはそれを知らないから、こうして町の広場の絞首台に母が吊られていることの意味を理解できない。
 タイカ・ワイティティの『ジョジョ・ラビット』の一場面。最後のシーンで女の子があのバイカラーの靴を履いている。絞首台にかけられた母の足から、靴を脱がせた少年の心を、そしてその靴を女の子に履かせた少年の心を思うのである。

 通勤時に通りがかる家の玄関先に吊られた二体の骸骨の人形を見たことから、連想は止めどもなく広がって、この想像力の水平展開をば意識的にやめなければ、いずれ剣呑、と予感するのはほとんど本能の域である。
 しかし十月というのにやけに寒いな、と声に出してみて、ようやく現実に帰還する。


 鈴ヶ森。
 標識にそうあって、おや、と思う。
 迂闊なことだった。平和島、と言われても土地勘はまるでなく、大井町、と言われてさらに雲を掴むようだった。休日にナビ頼りに来て、子どもたちの所望を果たしてその帰り道、鈴ヶ森の標識を見て途端に地勢が把握される。
 鈴ヶ森といえば、小塚原と並ぶ江戸の刑場。品川の宿場の近くに置かれ、江戸に入る人々に警告を与える役割をなした。どの辺りに立て札と磔とさらし首とが並んだのだろう。広重の描いた品川宿の浮世絵は大半が海。この海で、潮の干満を利用した水磔も行われた。
 箱根の関所もそうだが、江戸に通ずる要所要所は隘路になっていて、だから東海道第一の宿が海を背にするのも道理といえる。
 平和島に着いた時、なんとまた暗い土地かと目を剥いた。往来の真ん中に、老母を背負う男の銅像が立って、雨に濡れていた。その向こうにボートレース場の建物が控える。この暗さは雨のせいばかりとも思えず、賭け場はいずれもこんな暗さを帯びるものだろう、とその時はタカを括っていた。
 しかし鈴ヶ森の跡地と聞けば、話は変わってくる。むしろその土地にこびりついた暗さを、賭け場の賑わいでもって払拭するという思惑は、考えられないことではない。さらに最近になって子ども向けの遊戯場を加えたということであれば、ここに子どもたちを連れてきたことが、なんとなく後ろめたくもあるのだった。

 父の連想などお構いなく、車の後席で子どもたちが歌当てゲームに興じている。
 子どもたちの声の、なんと美しいこと。

(了)

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