眠れる女 #4/6

女の声に背を押されるようにあるいはドアの外へと釣り出されるようにしてリビングに戻るとさっきオレが両腕で腹を抱え横向きに蹲っていたソファーに何者かいる。

気配が先に立つがとうから目は闇に慣れているのですぐにソファーの上の輪郭をとらえ戸外は大寒波襲来時の超低湿度空気だからキンキン響くように澄み渡り月明かりも星明かりも街灯明かりも吸っても吸っても滴り終わらぬ乳のように大気へじわじわと滲み出し拡散しカーテンを閉てない窓からガラス越しに浸潤してソファーがテレビがローテーブルが書棚が椅子が壁が床がもう何もかもあらゆる静物がその肌にほのかな光を溜めれいの侵入者も燐光を放っている。長い黒髪をこちらに向けて横臥する姿形は昨日から家の和室を占拠し眠り続けるあの女と完璧なる相似を成しているが奇妙なことに目の前の黒髪には首から下がなかった。黒髪の長い女（女に違いない）は首だけの女であり生首が向こうを向いて横たわるというか転がされていてさっきまでいた客人（あればの話）の忘れ物のようにしてそこにいてあった。

「純ちゃん」にいるときはいつも頭のてっぺんに団子をこさえているから金木磨智子（52）がかくも長い黒髪の持ち主であるとはついぞ意識しなかったがそれが髪を下ろした金木磨智子、もはや首だけになった金木磨智子であるのは疑いようもなく、女の首をこちらに向けようと手を伸ばしかかると「ヤエテ！」とマチコさんのあの声が鋭く制止する。「アノヒト　サッキ　アタシノ　エンタア　クリヌイテ　オイルシテ　タヘテシアッタシ　クチイルハ　ジョウゲトオ　ソガレテ　アノヒトノ　アンシャクノ　サカナノ　サシイニ　ナッタカラ　キット　アタシノ　カオハ　アナタガ　イタラ　オゾアシイワヨ」首はすっぴんを見られるのを恥ずかしがるような口ぶりでそう言うのだがよく見るとあるはずのところに耳たぶがなく暗い穴がぽっかり開いて闇の粒子が左巻きの渦を巻くように見える。「ソレニ　ホントウハ　シラガノホウガ　オオイクライナノヲ　コアエニ　ソエテイルダケダカラ　ソロソロ　ハエギアガ　シロクイエルコロダカラ　ソレイジョウ　チカヅカナイデ　ソウヤッテ　アジアジ　イナイデッテハ！」とも首は言う。「純ママとかヒロくんとかに連絡しようか」とオレが申し出ると「ヤエテェ　ソンナコト　ゼッタイニ　ヤエテェ　アナタ　ナニカンガエテルノヨォ」とまんざらでもない感じだが首は後ろを向いたきりぴくりとも動かないのも道理で首から上の可動部は顎と瞼と表情筋に限られるから全体百八十度こちらに自ら向き直るなどまず不可能だし目玉をくり抜かれたとあってはそれらの筋肉の損壊を免れていないとも限らずそれにしてもソファーの長辺に沿って流れる黒髪は隣室に眠る女のそれと同じように匂い立つような艶やかさ。「フクコウニ　タワッタ　チニ　アノヒトハ　カオヲ　ヒタシテ　イウルイ　シテタ　アタシ　ソノトキ　アダ　イシキ　アッタ」恥じらいの向こうに喜びがあるのか憂いの向こうに悲しみがあるのかよくわからない声音をして文節で一々切りながらゆっくりと手探りするようにしゃべる。「コノ　ヌクトサニ　クルアレテ　イタイノダ　ソウイッテ　アノヒトハ　アタシノナカへ　ダイウシテ　オヨイダ　ソウシテ　ナイゾウヲ　リョウテデ　オチアゲテ　カオヲ　ソコヘ　ウズエタ　アタシ　ソノトキオ　アダ　イシキ　アッタ　アノヒトハ　ワタシニ　ソレヲ　イセナガラ　ウツクシイデショ　トイッタ　ナイゾウカラ　オワオワト　ユゲガ　タツノガ　イエテ　ワタシオ　ソウ　オオウト　イッタ　ソシタラ　キュウニ　イシキガ　トオノイテ　キガツイタラ　クイダケニ　ナッテタ　ダイドコロノ　テーウルノ　ウエニ　ヨコウキニ　ナッテ　イテタ　ズンドウカラ　オウオウト　ケウリガ　アガッテ　トンコツラーエンヤサンノ　ニオイガシテ　アア　アタシノ　ニクトカホネトカガ　ニラレテルト　オオッテイタ　ソノトキ　アタシガ　ナニヲ　カンガエタカ　ワカル？」急に振られてオレは自分が単に聞くこと聞き取ることに没頭してさえいればいいのだと勝手に思い込んでいたと知り慌てて答えを巡らすがわかるはずもない。「アイトハ　ナニカ　トイウ　コトデシタ　ワタシハ　アイニ　ウエテル　オンナダト　ソノジカクハ　ウカシカラ　アッタ　ハッホウイジント　カゲグチ　タタカレヨウガ　アタシハ　ダレカラオ　カレカラオ　スカレテイタカッタ　ソンナ　アタシノ　オクソコノ　ウズキヲ　リカイシテ　オラエズ　アタシハ　リコンシタ　ドンナ　アタシデオ　アイシテ　ホシイト　ノゾンダノハ　アタシノ　オオイアガリ　ダッタンダ　ローネー　デオ　アイサレルトハ　キュウキョクテキニハ　ショウヒサレルコトデアリ　ショウヒノ　キュウキョクノ　カタチハ　コレナンダト　アタシハ　サトッタ　ソリャサ　アタシガ　ノゾンダ　アイサレカタデハ　ゼンゼン　ナイシ　クヤシイヨ　カエシテヨト　イイタイケド　オキテシアッタ　コトダカラ　アキラエルオ　ナニオ　ナイシ　ウダンカラ　ジョウダンデ　オワタ　トカ　イッテタケド　ホントニ　オワルト　ドンナカオシタラ　イイカ　ワカラナイ　シンダラ　ドンナ　カオ　シテタラ　イイノ？」「マチコさんは……今どこにいるんです？」「ココダヨ」「ここって？」「ワスレテ　イクヨ　イロンナコトヲネ　ワスレテ　イクヨ　イッアイ　アラッテ　イッアイ　ナイテ　ヨロコンデ　カナシンデ　キタイシテ　クヤシンデ　シットシテ　ヤサシクオシタシ　オトシエタリオシタシ　ウラギリ　ウラギラレ　オキテ　ネテ　ハイセツシテ　ハシッテ　コロガッテ　イラツイテ　アキラエテ　ヤケニナッテ　コロシテヤルト　サケンデ　サイゴ　アッケナク　コロサレタ　ソレガ　アタシノ　オオエテイルコトノ　スエテ　アタシノ　ジンセイ」「ヒロくんのことは？」「ダカラ　イア　イッタヨ　アタシノ　オオエテイルコトノ　スエテ　アタシノ　ジンセイ　ソシテ　アタシノ　カエル　トコロ　アノコサエ　ユルシテ　クレルナラ」「マチコさんは今どこにいるの。こんな非道いことをした奴はあの夜にいた手相見の声の低い男なの」「ヒドイコト？　アノヒトハ　ソウ　オオッテナイヨ　タダ　アイノカタチガ　イッオウツウコウナ　ダケデ　ヒトリヨガリノ　アイト　セエタイトコダケド　オオカレスクナカレ　アイッテ　ソウイウ　オンジャン　アタシ　ソロソロ　イカナイト　アノヒト　コンヤハ　アタシノ　ノウイソ　タエルンダヨ」「どこ行くの？　助けに行くから。どこにも行くな」「アリガトネ　ナンデ　サイゴニ　ココヘキタカ　ワカラナイケド　ソウダ　コレダケハ　イッテ　オカナケレワ」「なに」「アナタッテ　トッテオ　タイクツナ　ヒト」

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