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蒋介石を祀る神社、中正神社へ行ってきた

神社の鳥居

日本の変わった神社

日本にある神社の数は81,067社。意外かもしれないが、コンビニ(約55,000軒)や郵便局(23,726軒)より多い。唯一肉薄するのがお寺(77,256寺)だが、それでも神社には及ばない。
しかも、上の社の数は、「神社本庁」という伊勢神宮を頂点にした神社組織に属したもので、神社ながら本庁に属していない神社も数多い。

そのご神体は様々。


児玉神社

台湾にゆかりがあるものといえば、神奈川県藤沢市にある「児玉神社」が有名であろう。
ご神体は、第4代台湾総督こと児玉源太郎。

サムハラ神社

他にも、大阪に市内のど真ん中にある「サムハラ神社」が有名で、謎の文字「神字(かんな)」で書かれた神社名が独特の雰囲気を醸し出している。
パワースポットとしても有名である。

下関市の中山神社には、愛新覚羅溥傑を祭った愛新覚羅社という祠もあり、日本が元来持つ多様性、「来るもの拒まず」的なおおらかさを感じさせる。

なお、あの靖国神社も神社本庁には属していない「独立系」である。

で、中には
「なんで?」
という、変わったご神体がある神社がある。

そのご神体は…

中華民国総統蒋介石

この人。
なに?知らない?この不届き者!
中華民国初代総統、蒋介石様にあらせられるぞ~!

この神社、知る人ぞ知るマニアックな神社なのだが、それにしても、なぜ蒋介石が神社になっているのか?
これは行ってみるしかない…私の足は東北から愛知県へ向かうこととなった。

■中正神社へGO!

中正神社は、愛知県額田郡幸田町という場所にある。
これだけで、
「ああ、あそこね!」
とピンと来る方は、地元民以外ほぼいないだろう。

愛知県幸田町
幸田町の位置

幸田町は徳川家康生誕の地、岡崎市の南にある町である。

中正神社の場所

地図で神社の場所を確認すると、歩けないこともなさそうだが、他の用事で10km以上歩いたため疲労困憊につき、今回はタクシーを使ってワープすることに。

私「中正神社って…わかります?」
運ちゃん「ああ、わかるよ!」

運ちゃんいわく、近隣のタクシーで中正神社と言われてすぐあそことわかる人は少ないそう。

「お客さん、運がいいでよ(笑」

と三河弁でいわく。

なお、1度だけだそうだが、台湾人も神社まで乗せたことがあるのだという。

タクシーに乗ること10分ちょっと、料金1,500円くらいで神社に到着。

中正神社

周りに神社などある気配は…その時、私の視界にあるものが!

駐車場の端の端の端に、申し訳なさそうにそれは鎮座していた。神社とくればそこそこ大きめのお社を想像していただけに、なんかやけに小さいな…というのが第一印象であった。タクシーの運ちゃんも、
「初めて来る人には、ここはなかなかわからんでよ(笑」
と三河弁垂れ流しで答えていた。

愛知県幸田町の中正神社
「永懐蒋公」の文字が


ここでの参拝は、「二拝二拍手一拝」とふつうの神社と同様の参拝方法。ご利益は「報怨以徳(怨みに報いるに徳を以てせよ)」…悪いことしたら相手の「徳」で許してもらえるというのだろうか…。

正直な感想を述べると、幟などは比較的新しいものの、参拝者が訪れている気配はほとんどなく、運ちゃんも
「中正神社指名でのお客さんは珍しい」
と。


愛知県幸田町の貴嶺宮

中正神社の横には、「貴嶺宮」という神社がある。こちらも神社本庁に属していない「神道系宗教法人」の神社だが、参拝者も多く例大祭の日には駐車場が満杯になるという。幟の寄贈者をチェックしても、関東圏が多いものの、氏子は全国に散らばっている模様。
中正神社も、実はこの貴嶺宮の敷地を間借りしているのである。

また、蒋介石をよく知らない人は、こうも思うだろう。

「蒋介石を祀っているのに、なぜ『中正』?」

中国人の名前のシステムは少しややこしく、詳しい説明は省略するが、要は「中正」は本名、我々が普段呼んでいる「介石」はあざなという、人に呼ばれる用の名前なのである。
最近台湾に入った人には記憶がないと思うが、現在の台湾桃園国際空港はかつて、「中正機場(空港)」という名前であった。英語名はC.K.S. Airportであったが、C.K.S. は”Chiang Kai‐Shek”、つまり蒋介石の略。
また、台北のど真ん中にある「中正紀念堂」などもある。

■中正神社がある理由

では、なぜこんなところに蒋介石を祀った神社があるのか。

社伝によれば、蒋介石は、第二次世界大戦終了の当日、「怨みに報いるに徳を以てせよ。それが中華民族の伝統である」とし、「日本分割占領の反対、賠償金要求の放棄、天皇制維持、軍官民200万人の即時帰国」などを提唱し、寛大な処置を図ったとし、この大恩に報いるためと建立されたことに始まるという。

http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=10192

このように、中国・満洲からの引揚者を中心にこうした「蒋介石伝説」が広まっている。神社建立も、おそらくそういう人が「徳を慕って」建てたのかもしれない。

1947年台湾で起こった二二八事件

実際は、「軍官民200万人の即時帰国」は中華民国の将軍に「朋友」が多かった岡村寧次陸軍大将、根本博中将などが交渉した結果だし、なにより、台湾史という観点から見ると蒋介石は二二八事件で台湾人を数万人(と言われているが実数は不明)虐殺した張本人。
「日本人、何もわかってないんだな…」
とため息をつく台湾人も少なくない。

神社がある三河の地は、かつて陸軍の歩兵第18連隊の縄張り圏内。第18連隊は日中戦争(支那事変)の序盤で中国各地を歴戦し、かの南京攻略戦にも参加している。幸田町ではないものの、同じ三河の地で、中国湖北省での戦闘で亡くなった兵の墓を見たこともある。
ということは、敵味方で戦った者どうしが、同じ地で同居していることになる。三河の民にとっては憎き「敵」ではあるが、平和な時代になり「ノーサイド」といったところか。


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