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スペイン風邪と明石元二郎総督

数年前、中国で発生した新型コロナウィルスは世界中に広まり、3年前に入った今日、ようやくWithコロナという状態に落ち着きつつある。ほぼ閉ざされていた日台間の行き来も再開し、ようやく日常を取り戻せるきざしが見えてきた。東シナ海を隔てたお隣の国を除けば…。

今から100年前、同じようにある伝染病が、東亜どころか全世界で猛威を振るっていた。その名は「スペイン風邪」。世界初のインフルエンザの世界的大流行だったのだが、患者数は全世界の人口の3割にあたる5億人以上、死者は少なく見積もって5000万人、資料によっては1億人とも言われる。

1918頃スペイン風邪(はやりかぜ)のポスター
1918頃スペイン風邪(はやりかぜ)のポスター

日本もパンデミックの例外ではなかった。1918年夏から1920年夏にかけて患者数2300万人、死者の数は35~45万人とされている*1。

特に18年~19年の流行が特にひどく、全患者数のほとんど(約2100万人)はこの時期に発生している。1918年12月31日現在の日本の総人口は56,667,328名*2なので、全国民の約37%がスペイン風邪の被害を受けたという数字を見れば、その猛威に驚愕するだろう。

当時は「はやりかぜ」と呼ばれていたが、これがのちにインフルエンザの日本語の表現、流行性感冒(または流感)となった。

東京駅を設計した建築家の辰野金吾や、今でも京都大学で「折田先生」として尊敬と同時に二次試験日の「名物」になっている旧制第三高等学校の折田彦市校長が、これで亡くなっている。また、劇作家の島村抱月のスペイン風邪による死去で、当時売れっ子女優だった松井須磨子が後追い自殺したことでも知っている人がいると思う。

そのスペイン風邪で亡くなった日本の歴史上の人物の中に、もう一つ、追加されそうな人物がいる。その人物とは、台湾総督を歴任したあの人物である。

◆台湾と「スペイン風邪」

その前に、台湾でのスペイン風邪の実態について書いていきたい。

台湾での「スペイン風邪」第1号は、1918年6月、基隆で発生したとされる。日本での発見は同年の8月頃なので、台湾上陸がわずかに早い。

基隆周辺で小流行ののち9月には収束したが、10月下旬に再び発生した。このときは縦貫鉄道が完成しそれに乗って高雄まで一気に広まり、1920年2月に収束するまでに約92万人の患者が発生、約4万4千人の死者を出した。当時の台湾の人口3,657,061人中に占める罹患率は25%、死亡率は1%である。特に東部の花蓮・台東での罹患率は非常に高く、当時の人口の約6割が罹患し、死亡率も非常に高かった。

「スペイン風邪」が台湾に牙を向けつつあるちょうどその頃、内地から台湾へ赴任した総督がいた。

明石元二郎 陸軍大将(1864-1919)である。日露戦争での陰の活躍で名を馳せた明石だが、その後の経歴は本人の身の回りや出世に無頓着な性格もあってかさほどパッとせず、台湾総督の就任もどっちかと言うとあまりパッとしない。
しかし、この「パッとしない」のが、こと台湾に対しては非常に幸運に出た。

明石が総督に就任していたのは、たった1年4ヶ月である。

が、民政長官*3の下村宏*4とコンビを組み、台湾のインフラの基本の整備を行った。現在の縦貫鉄道や、高雄市の都市整備や高雄港の建設も彼の総督時代の業績で、八田與一による嘉南大圳・烏山頭の建設にOKを出したのはナンバー2としての下村である。

台湾史における名コンビと言えば、すぐ思いつくのが児玉源太郎・後藤新平コンビだが、現在の台湾の生活にも大きな影響を与えたという点では、明石・下村コンビの方がよほど台湾に貢献した最強コンビであろう。


ところで、明石元二郎は総督に就任した翌1919年10月、公務で内地へ帰還中に病を得てそのまま死去してしまう。満55歳。

その時の遺言が、台湾では非常に有名となっている。

「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」

結果的に、明石は在任中に死去した歴史上唯一の台湾総督となる。上の遺言を今風に言えば、

「日本と台湾住民の守護神に、俺はなる!」

といったところだが、志半ばで死ぬのはよほど悔しかったのだろう、言葉の端々にそれを感じることができる。

そして、遺言通り明石は台湾に葬られた。彼の遺言を聞いた台湾の島民から多数の寄付が寄せられ、「皇族方を除いてこのような立派な墓を持った者は未だいない」と言われた立派な墓ができたという。

明石の墓は、戦後は中国大陸から来た兵士や難民によって建築の材料などにされ荒れ放題になった。が、90年代後半に陳水扁台北市長(当時)によって墓地に住み着いた住民が立ち退きされ、掘り起こされた上で三芝郷に移され、そこで再葬され現在に至っている。

◆新説 明石の死因

ところで、明石は何故突然死亡したのだろうか。

明石は大酒飲みで、それによる肝硬変や脳溢血説が有力であった。また、衛生状態も不十分だった当時の台湾のこと、マラリア説も有力であった。個人的所感だが、私も(当時の台湾を考えると)マラリアがいちばん自然だろうと漠然と思っていた。

が、最近になって新しい資料でも出てきたのか、新死因説がにわかに出てきた。

それが「スペイン風邪」である。

明石の総督赴任は、上述のとおり「スペイン風邪」の台湾上陸と共に始まった。総督としての仕事は、インフラ整備などと同時に、世界中で吹き荒れているスペイン風邪の防疫という重要な任務も含まれていた。

死の3ヶ月前の1919年7月はじめ、明石は突然高熱で倒れる。熱は最高40℃を超え一時は危篤状態に陥るが、持ち前の体力と医師の懸命の治療により回復、同月末には公務に復帰する。この症状だけなら、おそらくマラリアかなと思うだろう。

しかし10月13日に倒れ、26日故郷の福岡で亡くなるのである。その時の症状と、それが急激に悪化した経緯が今のインフルエンザに似ていたとされ、現在でも「スペイン風邪」での死ではないかと言われている。


実証主義をモットーとする歴史学に、IF(もしも)は禁物である。が、ここで想像を許してもらいたい。もしも明石がここで死ななければ、そしてスペイン風邪がなかったら…台湾はどういう風に変わっていただろうか。明石は現在の台湾でも尊敬を集めているが、逆に任期を過ぎて内地に帰り、天寿を全うしていれば、台湾での評価はどうだったのか。想像するとキリがないが、それを想像してみるのも面白いかもしれない。

明石の死去に伴い台湾は軍人総督の時代に終わりを告げ、当時首相で台湾政策に一家言を持っていた原敬により、「内地延長政策」による文官総督の時代を迎える。

*1 国立感染症研究所 感染病情報センター
http://idsc.nih.go.jp/disease/influenza/pandemic/QA02.html
*2 日本帝国人口静態統計, 1919
*3 明石在任中に総務長官に改称。
*4 歌人下村海南としても有名。


=参考文献=
Wkipediaースペインかぜ(日本語・中文)
1918-1920台北地區的H1N1流感疫情
流感,不只在現在:那場被遺忘的台灣大瘟疫
蔡承豪。世紀流感下的統治者-日治時期的兩位總督
明石元二郎総督墓所


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