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【鑑賞レポート】2024年「第8回横浜トリエンナーレ」がプチ炎上したのはなぜか ~炎上した理由は政治的な美術展だったからか、工夫すべき点はなかったか~

 会期大詰めの横浜トリエンナーレ。SNSで賛否が激しく分かれている。論点の中心は政治的な美術展は是か非かということ。過去、現代アート界隈では大きく話題になったものだけでも2019年のあいちトリエンナーレ、2023年のドクメンタ15と国内外でたびたびクローズアップされてきた。
 この問題はドクメンタではともかく、少なくとも日本についてはアート、美術、芸術というものをどのように位置づけしてきたかという日本と西洋との歴史的な相違にも起因しており、それを昨今ではSNSが煽っているという構図だ。——早い話が西洋美術の源流であるルネサンス美術はカトリックのプロパガンダという側面があったが、日本においては美術は基本的には装飾という面が強かった。
 本記事では「政治的な作品はアートかどうか」というアポリアについては本質的な答えを出すのは難しかった——なぜなら、現代アートにおいてはアートを定義すること自体がアートになっているから——が、今回の横浜トリエンナーレがプチ炎上した原因を含めて取り急ぎ、できるだけ簡潔にレポートにまとめた。
 結論をいうと今回の横トリ、SNSにありがちな政治的話題を煽ってあたかも大きな批判に見せる現象を割り引いたとしても、テーマの数が多すぎで、読ませたいテキストも多いにもかかわらず、作品数と配置構成、文字情報の伝え方が拙劣。それが政治的なアートの歴史的土壌がない日本において一部の鑑賞者の拒否感を増幅させたきらいがある。

 まず、今回どんな作品があったかについて、いくつかレポートする。今回の展覧会の中で、一番有名なジェレミー・デラー《オーグリーヴの戦い》。クレア・ビショップの労著作『人工地獄』でも取り上げられた作品。1984年の英国サッチャー政権下で起きた、炭鉱労働者の暴動をリエナクトメントした映像作品。当時の労働者側の人、警察側の人を含めた多くのエキストラを動員して再演。それをドキュメンタリー風に映像化したものだ。その際、労働者側だった人と警察側だった人が入れ替わって演じている人もいるというのが重要なミソ。

ジェレミー・デラー《オーグリーヴの戦い》2001年。約1時間の映像作品。

 次は、無料エリアにある、ウクライナのコレクティブ、オープングループ《繰り返してください》。この作品は、今開催されているヴェネチア・ビエンナーレのポーランド館でも展示されているし、美術手帖2024年4月号にも掲載されている。戦火の中のウクライナ難民が空襲警報や爆撃、機関銃などの音を口真似している映像。その音を聞き分けられることが生死を分ける。

オープングループ《繰り返してください》2022年

 3つ目の作品は、最初に取り上げた《オーグリーヴの戦い》と同じ手法のリエナクトメントを使った映像とインスタレーション作品、你哥影視社というグループの《宿舎》。2018年に台湾の工場で起こったストライキの再演映像と労働者が寝泊まりした部屋の再現インスタレーション。

你哥影視社《宿舎》2023

 さて作品の紹介はここまでにして、今回の横トリ、まず会場構成に不満がある。それは、同じアーティストの作品が分散されて展示されていること。鑑賞者側としては極めて見ずらい。その例が、ピッパ・ガーナーの《ヒトの原型》と《un(tit)le制服のポートレート》。他にも、オズギュル・カーとラファエラ・クリスピーノ、スーザン・チャンチオロ、ジョシュ・クライン、フンクワン・タムも遠かったり近かったりはするが2ヶ所に分かれているし、カルロマー・アークエンジェル・ダオアナとパピーズ・パピーズに至っては横浜美術館と旧第一銀行横浜支店やBankART KAIKOに泣き別れ。こうした分散展示に意味は見いだせない。おまけにアーティストの説明書きが片方にしかない場合も多かった。
 世界各国で起こっているデモや衝突を取り上げたトマス・ラファの映像もあちこち8ヶ所に分散して展示され、その音響とともにかえって反感を掻き立てた。田中敦子《ベル》は展示意図が拙老には全く理解不能で、そのけたたましい音が会場のイライラ感を逆なでしたともいえる。現代美術展にありがちだが、音響コントロールができていない。展覧会の通奏低音を意図しているのであればオープングループだけで十分だった。

ピッパ・ガーナー《ヒトの原型》2020
ピッパ・ガーナー《un(tit)le制服のポートレート》1997
オズギュル・カーの骸骨の映像の間に、ラファエラ・クリスピーノの鏡とネオン管の作品が挟まれており、ひとりのアーティストのひとつの作品と見えてしまっている。
トマス・ラファの映像作品。8ヶ所に分散設置されており、音響も展示室内に響きっぱなし。

 それと大いに不満なのが、BankART Station等で並行開催されている『再び都市に棲む』では有料入場者にはアーティスト略歴と作品キャプションが掲載されている小冊子がもれなくもらえるのに対し、横トリでは作品リストさえない、環境負荷を考えてのことであってもホームページの一番重要なアーティスト・作品情報はスッカスカ。これだけ文字が多い展覧会なのだから復習とアーカイブのためにも会場にあるキャプション類をホームページにアップするのは最低限の配慮だ。
 作品数の多さについても、ただでさえインスタレーション作品が多い現代アート、作品の切れ目がわかりにくく鑑賞者に嫌がらせをしているとしか思えなかった。そして、あまり意味があるとは思えない章建て、それに加え作品が章立てごとにまとまっているわけではない。キュレーションは大きなテーマがひとつあって、あとは作品自体に語らせることによってテーマを浮かび上がらせることで十分なのではないか。極論すれば、キュレーターは基本的にはテーマを書いてアーティストを選ぶだけで役目を終えるべきだ。どのアーティスト・どの作品を選んだかでキュレーターの意図はおおむね想像がつく。
 テーマの数が多すぎで作品も多すぎで分散しテーマごとにまとまっているわけでもない、加えてテキストが多すぎで、ただえさえ、観賞者の脳みそはパンクしそうなのに拷問としか考えられない。そうした構成上と、運営上の不親切さが一部の鑑賞者の混乱とうんざり感を増幅させる原因だ。例を挙げると2015年の京都国際現代芸術祭PARASOPHIAでは開会前に豊富な参考テキストを含むカタログが完成販売され、小冊子が無料で配布されるという文字情報的には行き届いた企画であった。それでも当時その展覧会内容の難解さゆえ「アートフォビア」という言葉さえ生まれた。それを考えると今回の横トリ、ただえさえわかりにくい現代アート展なのに、鑑賞者の思想的多様性への配慮が全く不足していた。
 今年のヴェネチア・ビエンナーレは規模・作家数・作品数的には横トリよりもはるかに大きいが、主要テーマはひとつだったのでわりと見やすかった。つまりテーマと作品数をもっと絞るべきだったのだ。——アーティスティック・ディレクターのおふたり、リウ・ディン(劉鼎)、キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)が拠点とする中国・北京では到底不可能な尖がった企画ができるということで張り切り過ぎたのではないかといぶかってしまうのは皮肉が過ぎるだろうか。
 最後にひとつだけ良かった点として拙老が考えるのが、松本哉の活動を現代アートの文脈のひとつとして取り上げたことだ。その思想的裏付けとして、柄谷行人やデヴィッド・グレーバー、斎藤幸平を参考書に挙げている。極論をいえばテーマはこれ一本でも良かった。——なお、アーティスティック・ディレクターのおふたりが森村泰昌がディレクターを務めた2014年のヨコハマトリエンナーレに感銘を受けたとのシンポジウム映像が公式YouTubeにアップされているが、おそらく大阪のココルームの活動をこのヨコトリで取り上げたことを指しているのだと推測する。

 (もっとレポートしたい作品はありましたが、テキストが多いと読んでくれないので、ひとまずこのへんにしました。)

中央の看板が松本哉の活動に関する展示
松本哉の活動に関する展示


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