見出し画像

つれづれ小説エッセイ ~オリジナリティ②~

 もうほんとに、オリジナリティって何なんだ?

 そもそもね。極論を言うと『古今東西見渡しても見当たらない完全オリジナルの全く新しい物語!!』なんてもはや天文学的な確率でしか出現しないでしょう。

 斬新だ斬新だ騒がれている作品だって、30年前の別ジャンルで似たようなのありましたよ~これもまたウン十年前のこの作品のオマージュで~とかネットをちょっと掘ったらわんさか出てくるわけで。

 大学で卒業論文書いたときと似たような気持ちになってくる。大半が先行研究の紹介で、それをちょーっと踏み込んだり最近の主流になっている論調を一滴垂らして違う側面から見たふりをしたりしただけで『独自の研究』と言い張って何とか大学から出させてもらおうとしていたあの頃。

 真の意味で新しいオリジナルの物語なんて、存在できない。

 都市伝説的に『シェイクスピアの時代に物語はとっくに出尽くした』なんて話もよく聞く(これちょっと出所がアヤシイらしいんだけども。参照: https://blog.goo.ne.jp/sayamagawa/e/1b71b774a39e78df2cafe5c3da5176e0)。

 でもそれで「シェイクスピア以降の物語は全て焼き直しに過ぎないから新しく書く意味なんてない」となるのは、あまりにも、悲しいじゃないか……。

 確かに、物語というものを分類して研究してくれる人たちがいて、物語は6つの型に分類できるとか、神話の法則とかいうわかりやすくて面白いパターンを生み出してくれたとかいう話はたくさんある。

 やろうと思えば全ての物語をこの型やパターンに当てはめて「ほらこのパターンに当てはまるから結局はハムレットの焼き直しでしょ?」と言うことはできるだろう。

 ただ物語を研究してくれた人たちは、そんなことをするために研究したのかなあ? とは思うのだ。面白いから物語を研究したのであって、物語をつまらないものにするために型を作ったわけじゃないと思う……個人的には。

 それに人間の人生だって、やろうと思えばパターン化できる。ドラマチックな起伏なんてめったに起こらないから、きっと物語より単純で面白みのないパターンが出来あがる。

 だけど、自分の人生をパターン化されるのなんて、ほとんどの人間は嫌なんじゃないだろうか。周りから見たら取るに足らない小さなことも、当事者にとっては大ごとなんだから、わざわざつまらないものにされたくなんてないはずだ。

 つまらなくしようと思えば、いくらでも物事はつまらなくなる。物語もそうってだけじゃないかしらん。

 例え同じパターンで物語を作ったとしても、そこに作者の『自分の物語』を乗せれば味付けが変わってくる。時流を乗せれば口当たりが変わってくる。ちょっと味付けや口当たりが変わっただけで、味も変わって思える。

 なんだか味が変わったな、と思ってるほうが、結局前に食べたこれと同じ味だろ? とか思ってるよりずっと面白いはずなのだ。

 ここまで書いてみて思ったけど、オリジナリティって面白さのスパイスだから、うんうん考え込んでるときは敵に見えるけど、本来は物語を面白くしてくれる味方になる。

 うまく味方につけるのは、本当に本当に難しいんだけど、オリジナリティがあれば『私』の生み出した物語はぴかぴかと光り輝いて面白そうに見えてくれる。歴史から見ればほんの一瞬の、宇宙からすればどうっでもいい小さな小さなきらめきのために、今日もあ~でもないこ~でもないと脳みそをこねくり回している作家たち(私含む)がたくさんいる。

 本音を言えば誰だってただ書くだけでオリジナリティがバリバリに発揮されたクソ面白い小説を書ける天才でいたかっただろうけど、残念なことに天才ではなかったので(私含む)、自分らしさって何だよおと呻きながら原稿の前に突っ伏しているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?