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ただ肯定したいだけなのだけれど

 「自分がそう認識している」ということと、「他人にそう認識されている」ということは、必ずしも一致しない。

 当然のことをしているだけだと思っていたのに「優しいね」と言われるとか。あまり自信のない絵だったのにすごく褒められたとか。あと、男子なのに女子枠へ放り込まれるとか。

 22年間本当に一度も言わずにいた、とっておきの「一生のお願い」をここで使いたい。いっちゃん最後のやつだけ、どうにかならんか。



 冒頭の1行目は、実際にゼミの指導教員に言われたことだ。

 「配慮申請書の記載以上の自己開示は一切しない僕✕自ら開示されないことには絶対に触れない指導教員」という奇跡のタッグのおかげで、僕からは本当に必要最低限の情報しか手渡していないはずなのに、先生はなぜか激痛が走るツボを的確に押してくる。先生は「話を聞き出すのは、技術でどうにでもなるからねぇ」と微笑むけれど、僕は勝手に「巫女さんの血を引いている人だ」と思うことにしている。だって僕は本当に、先生の前では個人的な話を一言もしない。先生の自己開示が始まったら、先生の目を見て頷き、先生の手や視線を目で追い、軽い笑い声を上げるだけで9割のコミュニケーションを取る。おそらく過去イチ先生と気が合う学生である一方で、過去イチ防衛的な学生だ。自己開示の返報性? そんなものは知らん。

 でもたぶん先生はもう、僕が「進学先の新天地では、どんな姿で生きるべきか」に気が狂うほど頭を悩ませていることを見抜いている。先生が直接的に声をかけてくることはないし、僕も今後先生に相談するかはまだ決めかねているけれど、どこかでお互いに「今ちょっと探り合ってんだよな」と気づきながら、この話題での適切な距離を測っている。

 今年大学院を受験するかどうかを決める面談で、その時に一度だけ、先生に「でも僕はやっぱり、あえて1年浪人して、この身体をどうしてやるか決めて、変える時間を持つべきだと思うんです」と言ったことがある。それに対して先生は、やんわりとだけれどこう言った。

「身体を変えるのは誰のため? あなたじゃなくて、周りの目のためなんじゃないの? それでもし、身体が変わったのに周りの目が変わらなかったら、絶対に後悔するよ。『自分がそう認識している』と『他人にそう認識されている』は、残念だけど必ずしも一致しない」

 指摘は図星だ。敬愛する巫女さんにそう言われたら、僕はもうそれを信じてしまいたくなる。



 実際のところ、僕は今の僕の身体が好きだ。ほんの2年前までは嫌いだったけれど、手術で上半身の凹凸をなくしたら、そこそこ人並みには愛せるようになった。右前の真っ平らなボタンダウンシャツを、ぴんと伸びたネクタイを、歪まないボーダー柄のTシャツを見下ろす度に、あぁこれこそが僕の身体だと撫でてやりたくなる。薄くて軽くて、誰のことも威圧しない身体。声の高さに不満はあるし、筋力の弱さは悔しく思うし、友達のたくましい前腕だったり背中だったりが羨ましいけれど、加害性を持たないという意味ではまあ、別にこれでも悪くない。

 どうにかこの気に入っている身体で、それなりに気に入れそうな人生を歩んでいけないものか。

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