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怒りを制して「大人のケンカ」で勝つ方法

フォレスト出版編集部の寺崎です。

今日は先日のこちらの記事の続きです。

仕事をするうえで、ついついカッとなって怒ってしまいそうな場面は誰しもあるでしょう。でも、そこは大人。グッとこらえてしまうもの。

でも、「ここだけは譲れない」というこだわりが双方にあった場合、それは「大人のケンカ」に発展してしまいます。

社会人たるもの、なるべくケンカは避けたい。だけど、ケンカになったからには勝ちたい。負けるわけにはいかない。

そんなときに使える「怒りの作法」が今日のテーマです。では、また改めて『怒る一流 怒れない二流』からご紹介します。

***

10より20が勝つ大人社会のケンカ術

 私が編集企画会社をやっていたころ、企業のPRポスター製作で、モデルの人選が難航したことがあります。若手の女性タレントのA子を推薦したのですが、広報担当者が煮え切りません。
「製作日数の関係もありますので、早く決めていだかないと困るんですが」
 と下手に出れば、
「だけどねぇ」
 と担当者は優位に構えるものです。

「じゃ、A子はやめましょう」

 私はケツをまくりました。

「おいおい、製作日程は大丈夫かね」
 納期に遅れて困るのは私だけじゃなく、担当者も同じです。
「納期については改めて相談ということになります」
「わかったよ、わかった。A子でいこう」
 担当者はあわててOKを出したのです。

 10の怒りと20の怒りがぶつかれば、20のほうが「実」を得る。
 これが〝大人社会のケンカ〞です。
 会議を思い浮かべてください。
「私は、その意見に断固反対だ!」
 烈火のごとく怒る人間に対して、あなたならどう接しますか。
「断固反対と何事だ!」
 と言い返す人は、まずいないもので、
「まあまあ、そうカッカしなくてもいいじゃないか」
 と、なだめにかかる。
 怒って仕掛けるほうが20となり、それを受けるほうは10になってしまう。これが「10対20」のケンカ術であり、大人社会のケンカです。
「じゃ、A子はやめましょう」
 と、私がケツをまくった方法です。
 ということは、「怒り指数」が高いほうが相手を制するということです。    
 だから私は、この意見だけはどうしても譲れないというときは、会議の途中で怒って見せます。
「今日の会議は認めない!」
 と極論をぶつけます。
 すると必ず、妥協点をさぐってきます。うまくいけば丸呑みしてくれることになるのです。

《怒り》と〝沸騰点〞

 某出版社のヒットメーカーであるNデスクは、決断がとても早い人です。
「こんな企画、どうかな?」
 喫茶店で珈琲を飲みながら提案すると、
「面白い。すぐやりましょう」
 その場で結論を出します。
 編集会議もあれば営業部の意見も聞く必用があるでしょうから、出版に至るかどうかはわかりませんが、N氏自身の決断はその場でするのです。
 まちがっても、
「ウーン」
 と、腕組みをして唸ることはありませんし、
「検討させてください」
「企画書に起こしていただけますか」
 と結論を先送りすることもありません。
「イマイチですね」
 と乗らないことも、もちろんありますが、いずれにせよ決断が早いのです。

 反対に、なかなか決断できない編集者もいます。
 たとえば某社のX氏は、噛んで含めるように企画を説明しても、
「どうですかねぇ」
 と思案しています。
「何か不明点でも?」
「てぇ言うか、売れるかどうか……」

「それを判断するのが編集者だろう」
 と言いたくなる気持ちをぐっと抑えるのは、精神衛生上、あまりよくないものです。

 決断が早いNデスクは、たとえて言えば、すぐにお湯が沸く風呂です。言葉を変えれば、沸騰点が低い人です。水は百度で沸騰しますが、Nデスクは六十度で沸いてしまうのです。
 一方、X氏は、なかなか沸かない風呂です。焚た けども焚けども温ぬるいままで、いつになったら湯船に入れるのか、シビレを切らしてしまうのです。
 怒り方も同様です。沸騰点の低いNデスクは怒るのも早い。その場で部下や後輩にドカンと特大級のカミナリを落としますが、それで終わり。
 X氏は、その場で怒ることは、まずありません。
 数日してから、
「この間の校正ミスの件だけど」
 と持ち出し、事あるごとにこのことを引き合いに出して、部下をネチネチと責めるのです。

 一事が万事とはよく言ったものです。沸騰点の低い人は、決断も、仕事も、そして怒ることにおいても、瞬時に処理してしまうのです。反対に、沸騰点の高い人は、決断もできなければ、仕事の処理も遅く、怒ることでさえ、ミスした本人が忘れたころにするのです。
 そして、仕事ができる人は、沸点の低い人であることは言うまでもないでしょう。
 怒り方を見るだけで、その人の能力がわかるのです。

***

「瞬間湯沸かし器」と呼ばれるような人は最近はめっきり減りましたが、怒るときにはガツンと怒る必要は令和のいまでも必要なような気がします。

思えば、昭和の時代に育った私の中学~高校時代は、先生が生徒を「しつけ」の意味で殴るのは日常風景でした(男子校だったからかもしれませんが)。

でも、生徒を殴らない先生が生徒から慕われていたかというと、けしてそうではありませんでした。

生徒の行動を見て見ぬフリをせず、ちゃんと対峙してくれる先生のほうが生徒からは慕われていて、先生の愛の鞭(今では「体罰」として許される行為ではありませんが)を受け入れていたように思います。

ちょっと最後は話が逸れてしまいましたが、「怒り」ひとつとってもなかなか考えさせられるものです。


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