見出し画像

信頼している友人や同僚に、悪口を言われても気にしないでほしい

12月になりました。
忘年会の季節です。
勘弁してくれという人も多いでしょう。
私としては、行きつけの飲み屋が予約で入れなくなるのが一番残念です。
また、会社の忘年会も行く気になりません。その理由を4つほどあげてみましょう。

理由①:同じ会社に長く勤めているからか、「しゃべることがない!」。今更かしこまって話すのも芝居じみて興醒めする。
理由②:逆にくだけた雰囲気でも、それはそれでセクハラをしたり、舌禍を起こしたりしまうのではないかと、怖くなる(経験済みなので)。
理由③:若手に、「教育」という名の説教をしてしまいそう(特にマンスプが怖い!)。
理由④:政権批判を中心とした政治談義をかましてドン引きされそう。

(こうして整理してみると、非常に自己中心的な理由で我ながらビックリします)

「1年の感謝を伝える機会だ!」という意見があるかもしれません。しかし、感謝というのは以下の呂布カルマさんが言うように日々伝えるものです。

私は毎日、同僚には「お疲れ様です」、外部には「お世話になっております」と、感謝の枕詞を使うのを決して忘れません。やりとりがない人に対しても、心のなかでエア感謝しています。逆に感謝されなくて、怒るような人にもなりたくありません。

さて、グダグダどうでもいいことを書きましたが、結局のところ、誰かと飲んでいるときに盛り上がるのが、「○○さんと△△さんがこんなんなっちゃって」とかのエロい話や他人の悪口です。
おそらく私もさんざっぱら、酒の肴として悪口を言われているのでしょう。しかし、それはお互い様。
「一番の仲良しの子が、他の子に私の悪口を言っていた!もう絶好」なんていう思春期はとっくのとうに過去のもの。
そんなふうに、酒でも飲んで笑い飛ばしませんか。
以下は、清水あやこ『女子の心は、なぜ、しんどい?』の、女性同士の悪口について記述している箇所の抜粋です。常識的な悪口は、愛すべき人間臭さなのです。


 私たちのコミュニケーションの多くがテンプレ化しています。
 メールや電話でも、初めて接触する人にも「お世話になっております」と言い、受け手も疑問を感じることなく「こちらこそ、お世話になっております」と返す人もいます。内容が少し難しくても、相手が気持ちよさそうに話していたら、受け手は「なるほど」などと相槌を打ちます。相手に反論するときも「なるほど、確かにおっしゃっていることはわかります。私もそう思っていました。しかし、○○という考え方も捨てがたいのではないでしょうか」などと、全否定しない会話のテンプレを用います。
 そして、このようなテンプレを臨機応変に使いこなせることが、「できる人」として評価される基準の1つとされ、多くのコミュニケーション指南書にその技法がまとめられています。
 これは上っ面だけの型にはめられたコミュニケーションとも言えるのですが、特にビジネスのような場面であれば、裏にある本音を勘繰りだしたら疲れ果ててしまうので、私たちは考えすぎないように、お互いに信頼の上に成り立っていることを前提にしてやり過ごしています。
 しかし、女性同士のコミュニケーションになるとついつい考えすぎてしまう人がいます。同じ女性であることから、相手に自分を投影してしまうのです。
「○○さんの旦那さん、いつも子どもの送り迎えをしていてイクメンですね。うちはいつも帰りが遅くて……」
「そんな、△△さんの旦那さんこそ一流企業に勤めていらっしゃってうらやましいですわ」
 こんな「オホホ笑い」が出そうな会話をしていると、お互いに相手は「嫌味を言っているのではないか」とついつい勘繰ってしまい、狐と狸の化かし合いを始めてしまうものです。

ウソと本音の見分けにこだわってしまう

 女性同士のコミュニケーションが難しいのはなぜなのでしょう?
 それは女性が言葉で表現していることと、本心で思っていることがズレていることが多く、そのズレまで考慮しながら会話を進めないといけないからです。
 このズレが生じてしまうのは、場を盛り上げたい、相手の気持ちに寄り添いたいといった善意的な理由が大半です。中には、「○○さんは、私が傷つくようなことも正直にズバッと言ってくれる、とてもサッパリした人」と評価する、される人もいるでしょうが、ある程度の信頼関係やキャラの確立があるからこそ許される異例の評価でしょう。
 むしろ、相手を気遣って言いたいことが言えない、やさしい人のほうが世の中多いものです。しかし、自分がそうであるがゆえに、相手の挙動から言葉とは別な本心がにじみ出ているように感じ、近寄りがたく感じてしまうのです。

人は誰でも他人の悪口を言うもの

 もちろん、いつも相手によってコロコロと言動を変える人もいます。理屈からいえば、そうした人を見るにつけ、ちょっとした人間不信に陥ってしまう気持ちもわかりますが、もっと鷹揚に構えてみると、大したストレスにならずに受け流すことだってできるものです。
 仮に、いつもAさんに対してすごく親切に接しているBさんが、第三者にAさんの愚痴を言っていたとしましょう。その事実だけを見れば、BさんはAさんを裏切っていると思うかもしれません。それをAさんが知ったら、普通に考えて2人の関係性は破綻するでしょう。しかし、Bさんにしてみれば、「Aさんに嫌な気分にはなってほしくはないが、やっぱりどこかで愚痴は発散したい」という、人間誰もが持っているごく普通の情動によるものだったりするのです。
 もちろん、愚痴レベルではすまない、人格攻撃や貶おとしめてやろうという意思を持った人が相手であればできるだけ早く縁を切るべきですが、それはまた別の話です。
 胸に手を当ててみれば気づくでしょう。あなたも普段親しく付き合っている人の愚痴を第三者にこぼしたことがあるはずです。カチンとくることがあったとき、それを人に話すなりして発散して、次に会うときにはいつもどおりに接する――。
 ごくごく普通の、誰もが持っている愛すべき人間臭さです。友人の悪口を言ってはいけないと自分の感情を抑えたり、友人を不快に思ってしまった自分に後ろめたさを感じることは、心を不安定にする1つのきっかけになります。
 ただし、先ほどの例のように自分と友人の共通の知人に悪口をこぼすのは悪手です(その共通の友人は悪口を聞き出す、あるいは引き出して秘密を共有することで、より親密になることを望んだり、支配欲が強い場合はコミュニケーションをコントロールするためのカードとして使うことがあります)。したがって、愚痴や悪口を言うにしても、親やパートナーなど、無条件に自分の味方になってくれる、友人との接点が薄い人を相手にすべきですし、それこそが上手なストレスの発散方法といえます。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(編集部 いしぐろ)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?